明治政府がドイツの印刷会社から招いた印刷技師エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone 1833−98 イタリア人)の指導によって、政府紙幣寮が西洋の機械を用いた最新技術である凸版印刷の切手(第30回「小判切手」参照)を発行したのは、1876(明治9)年のことである。それ以前の日本切手は、印刷する原版に切手の図柄、1シート40枚(横8×縦5)分を1枚ずつ手で彫って作っていた。1871(明治4)年の日本最初の切手発行から1年余りの間は、江戸時代から続く当代きっての銅版彫刻技術者、松田緑山(敦朝)とその工房の玄々堂が、これらの切手の製造を請け負っている。その後、凸版印刷の切手が登場するまでは、政府紙幣寮が、この手で彫る技術で切手を製造していた。これらの手作業で作られた1871〜76年の切手を、切手収集家は「手彫切手(てぼりきって)」と呼ぶ。この名称のきっかけは、1916(大正5)年刊行の本格的な日本切手カタログ『大日本郵便切手類鑑』(切手趣味雑誌「郵楽」第2巻第9号)の中の“手彫凹版印刷”という文言であろう。そして昭和時代初期には、「手彫切手」の名称が広まっていたようである。
日本最初の切手についての収集研究書として著名な『竜切手』(市田左右一 1971年)に、切手製造に関する考察がある。これをもとにして、「手彫切手」の原版製造過程を簡単に記す。
原図をもとに、紙に原寸で40枚分の切手の絵柄を、出来上がりとは逆さに描く(逆絵)。そして、裏側に酸化鉄粉をつける。滑らかに磨いた銅板にワックスを塗り、この紙の酸化鉄粉をつけた面を接合。表面の逆絵をなぞって、銅板のワックスの上に酸化鉄粉を付着させる。紙を剥がし、銅板を火であぶると、ワックス面に逆絵が転写される。逆絵を、鉛筆のように先が尖った刃物で、銅板に達するように掻き削り、この部分のワックスのみを取り除く。次に銅板を酸に浸して、ワックスが削られた部分を腐食させる。その後、水洗いして他の部分のワックスを取り除く。この作業によって、銅板に凹版の線が刻まれる。ここにインクを溜めることで、凹版の印刷がなされた。「手彫切手」は、1シート40枚の切手の1枚1枚が手で彫られているので、どこかしらに差異がある、均一ではない切手なのである。
さて、以上のように、「手彫切手」は、凹版印刷の手法でいうところのエッチング(etching 腐食法)によって、手作業で製造された。この手法は、大量の切手を印刷するには即さないものであった。しかし、当時の日本は大量生産技術が未発達で、これに頼らざるを得なかった。イギリスが1840年に発行した世界最初の切手“ペニー・ブラック”は、凹版印刷のエングレーヴィング(engraving 直刻法)によって、まず元になる切手1枚分が銅版に直に彫られた。それを1シート240枚(横12×縦20)分の数、機械によって複版するという、大変に精巧で大量印刷にも耐える技術が用いられていた。技術力の差が、歴然としていたのである。「手彫切手」は、機械による大量印刷の切手に対して、手作業で作られた切手、という概念をふまえた名称でもある。
2006年10月に刊行された『日本切手専門カタログ 戦前編 2007』(日本郵趣協会)では、日本最初の切手からおよそ5年間に発行された「手彫切手」を51種類に分類している。その分類の基準となるポイントも、製造面から詳しく解説している。そして、1種類の切手ごとに、彫りの濃淡、彫り忘れなどの印面変種をわかりやすく図示している。このカタログを教科書に、数倍のルーペで「手彫切手」をのぞけば、その種類の判別は大変に容易である。また、手作りの切手の味わい深さも堪能できる。なお、「手彫切手」はオーストラリアのイギリス植民地ニューサウスウェールズやタスマニア、イギリス領モーリシャスの最初を含む初期の切手(1847〜54年頃)にも見られる。しかし日本とは異なり、これらはエッチングではなくエングレーヴィングによって、原版に切手1枚1枚が手で彫られていた。
2006/11/4
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