切手と遊ぶ発見ミュージアム

切手旅第16回「岩国 錦帯橋」

切手旅の第16回の舞台は、山口県岩国市にある錦帯橋(きんたいきょう)です。
ご紹介する切手は、1953(昭和28)年発行の「観光地百選」シリーズから「錦帯橋(建造物)」です。観光地百選については、切手旅第11回でもご紹介していますね。
 

「錦帯橋」24円切手 1953年発行

錦帯橋ってどんな橋?

 
岩国市は山口県の最東部に位置し、人口は約12万8000人。吉川氏の治める岩国領6万石(※1)の城下町として発展し、いまも面影残る家並みを見ることができます。昭和に入ると、呉や江田島と並んで陸軍や海軍の基地がおかれ、現在は在日米軍と海上自衛隊の基地があります。
隣接して、江戸時代から明治時代に北前船の寄港地として栄えた港町の風情あふれる光市や、重要伝統的建造物群保存地区に指定された見事な白壁の街並みが美しい柳井市があり、県境をまたいだ東は世界遺産・宮島のある広島県廿日市市です。岩国を起点にぐるりとめぐれば、素敵な観光コースができる見どころの多いエリアです。
 
一度は見て、渡ってみたい名橋・錦帯橋(写真提供:岩国市観光振興課)
 
今回の主役の錦帯橋は、市内を流れる錦川に架けられた5連の木造橋です。岩国領初代・吉川広家は錦川を天然の外堀として、西に武家屋敷を整備し、川を挟んだ東側に城下町を築きました。下級武士たちは、住まいのある城下町から日々錦川を渡って通勤することになるわけですが、天候が荒れて川が増水すると、渡船はもとより土橋などの簡単な橋は何度も流されてしまい、そのたびに働きに行くことができず、藩政に影響が出ていたといいます。
 
「古来岩国川と称した此錦川は周防国の山嶽部を貫流する中国の大河の一であるが、其河川としての性格は急流で、一朝出水のときは流激両岸を拍ち、滔々として人馬の交通を途絶すること稀れでなかった。慶長五年関ヶ原大合戦後毛利一族が防長二州に削封となって移城し来った時、同族の吉川広家は翌六年始めて岩国に城を構うることになった。錦川を挟んで西に城館を築き川を隔てゝ城下町を開き其間の交通は渡舟を以て往来していたが、出水毎に不便を被り平坦な土橋又は柴橋を架設したけれども、洪水毎に落橋流失の災禍に苦しめられ、何んとか流失を免るゝ工夫はないものかということは初代藩主広家、二代広正、三代広嘉に至る約七十年間の難題であった。」(『月刊ゆうびん』より)
 
 
とあるように、流されない橋を架けることは、吉川家長らくの悲願だったようです。
私は高校の修学旅行で初めて錦帯橋を訪ねたのですが、この話を聞いたとき、「川を挟むなんてちょっとオシャレな街づくりだけど、濁流になったらそりゃ寸断されるわよねぇ。いい橋を架けなきゃ仕事にならないじゃない…」と生意気にも思ったものです。
 
三代・広嘉の代になり、1673(延宝元)年にようやく227mの城門橋として錦帯橋が完成します。実はこの最初の錦帯橋、翌年5月の洪水で5連のうち3連が流出してしまうのですが、同年中にさらなる技術を結集し、再建を果たします。以来、昭和にいたるまで、定期的に木造部分の架け替えをして技の伝承を行いながら、維持されてきました。
橋の建設に際しては、山梨県の猿橋や長崎の眼鏡橋、中国の『西湖志』に描かれた6連橋などを参考にしているそうですが、こんなおもしろい着想の逸話もあるようです。
 
「広嘉が或日「かき餅」を鉄網の上で焼いていると、火熱に随って其れがふくれあがり甲高に立ちあがる、これを火箸で抑えるが又立ちあがる、丁度彎曲せる小さな橋だ、「コレだな」と感じた天才の閃きである。ニュートンが地球の引力を発見したのは偶然林檎の地に落つるを見てのことである。科学者の大発見もかゝる微小な事から天地の秘密が知らるゝとすれば、広嘉の此の発見も必ずしも一片の伝説として等閑視することは出来ない。」(『月刊ゆうびん』より)
 
 
膨らむ「かき餅」から閃いたなんてユニークです。よほど橋のことに思いを巡らせていたのでしょうね。こうした噓か誠かのエピソード、難工事の裏話としてよくありますが、人間らしくて私はとても好きです。
川を渡る優美なアーチの美しさと、そこからは想像つかないほど複雑な木組構造は、一見の価値のある名橋として堂々たる存在感を醸しています。
 
膨れ上がる「かき餅」のように、見事に反りあがります。河原に降りて、橋の構造もしっかり見てみましょう
 
※1 長州藩が支藩を認めなかったため、岩国は領のままで大政奉還を迎え、岩国藩となったのは1868(慶応4)年のことでした。
 

「観光地百選」シリーズとは?

 
切手旅二度目の登場となる「観光地百選」シリーズ。発行までの詳細については、切手旅第11回「甲府 昇仙峡」でご紹介しています。
簡単におさらいしますと、1950年7月、毎日新聞社と日本観光地選定会議主催の「新日本観光祭」が開催され、一般投票により「日本観光地百選」の選出が行われることが報じられました。これを受けて郵政省は、海岸・山岳・湖沼・瀑布・温泉・渓谷・河川・平原・建造物・都邑の10部門の各1位となった観光地10カ所を観光地切手として発行することを発表しました。観光地を抱える自治体は、我が故郷を百選にランクインさせようと、熾烈な投票合戦を繰り広げ、応募総数は7,750万854通にのぼりました。結果は以下の通り。
 
<海岸>和歌浦友ヶ島
<山岳>蔵王山
<湖沼>菅沼丸沼
<瀑布>赤目四十八滝
<温泉>箱根
<渓谷>昇仙峡
<河川>宇治川
<平原>日本平
<建造物>錦帯橋
<都邑>長崎 
 
大規模な組織票など、公正さでは眉をひそめるようなこともあったようですが、日本中の観光地が湧き立ち、誇りを取り戻し、戦後復興の一助として観光が力を発揮する時代の契機となったことは事実でしょう。1位を獲得した観光地はもちろん誰もが知るところばかりですが、それでもちょっと意外な場所もちらほら。組織票の力があったとはいえ、そこに「旅先に求めるもの」の今と昔の違いがあるのかなと思い、興味深くランキングを見てしまいます。
 
それでは今回の主役、シリーズ最後を飾った「錦帯橋」の切手を見ていきましょう。
錦帯橋は建造物部門の一位として、123万8,218票を獲得しました。ところが、切手発行までの道のりはけして安泰ではありませんでした。
というのも、投票合戦まっさかりの1950年9月14日に、西日本を襲ったキジア台風により、錦帯橋は流失してしまったのです。1673年の架橋以来、280年近くも持ちこたえてきた橋が、橋脚もろともこのタイミングで流されてしまいました。それまで建造物部門では西の日光と呼ばれる広島県の耕三寺や熊本城が上位を占め、錦帯橋はやや出遅れていた面もあり、このまま失速かと思いきや、ここで郷土愛に火が点いて猛烈な追い上げをみせて無事一位を獲得します。しかし…
 
「当時、橋の国宝指定運動を続けていた岩国市では、橋の流出後も毎日新聞社への投票が続けられました。この結果、錦帯橋は観光地百選の「建造物」部門でみごと第一位の票を獲得しましたが、現物が流出していることから、当初、その切手発行に関しては異論も多く、郵政省内には錦帯橋を失格として部門第二位の耕三寺(広島県)を切手に取り上げるべきではないかとの意見も根強かったようです。
しかし、一九五〇年一二月一六日、毎日新聞東京本社で切手に取り上げられる各観光地の代表者と郵政省の間で話し合いがもたれた結果、観光地百選切手の「建造物」には錦帯橋が取り上げられることが決定。当面のスケジュールとして、橋の再建費用を集める好材料とするためにも、「山岳」の部で第一位となった蔵王山とともに、一九五一(昭和二六)年二月に観光地百選切手の第一弾として発行されることが企画されました。
ただ、こうした地元への配慮は、現物が存在していないものを発行するのはいかがなものかとのクレームが郵政審議会の専門委員会でつけられたことから白紙撤回され、錦帯橋の切手は橋が再建された場合の起工式もしくは落成式に合わせて発行することになりました。」(『濫造・濫発の時代 1946-1952』より)
 
 
決まりかけると異論が唱えられ、岩国の方々はさぞ気が気でなかったことでしょう。橋が再建されなければ切手も出ない、ということで、再建工事は1951年から始まり、のべ6万4000人の労働力と1億1000万円の費用を投じ、1952年末にほぼ完成。1953年1月15日に渡初式が行われました。
橋の再建と並行して、切手の制作もすすめられていきました。
 
「当初、郵政省は、錦帯橋の切手に関しては、従来の観光地切手とは趣を変えて版画を図版に採用し、一九五三年一月の渡初式にあわせて発行することを計画していたようです。そして、国内書状基本料金用の一〇円切手には、二代目広重の版画を図版として用いるものとして準備がすすめられましたが、のちに初代広重の作品(帝室博物館所蔵)を原写真として活用することが可能となったため、こちらが採用されました。
一方、外信書状基本料金用の二四円切手に関しては、当初、大正時代を代表する風景版画家・川瀬巴水の作品を取り上げるべく準備が進められていましたが、巴水の作品は図案が細かすぎて切手には適切でないとの理由からこの案は放棄されました。
そうしているうちに、時間的余裕がなくなり、一九五三年一月の切手発行が不可能になったため、あらためて、関係者の間で打ち合わせが行われた結果、一〇円切手には予定通り広重の錦絵を採用するが、二四円切手には写真または写実図案をあてることが決定されました。また発行日に関しては、地元側には4月中に切手を発行し、河床敷石工事完了後の五月初に予定されている完工式を内外に宣伝したいとの要望もあったようですが、桜をとりいれた完工後の新橋の写真が間に合わないとの理由から、これは却下され、5月上旬の発行が決定されました。
もっとも、切手図案の原写真として用いることを想定して撮影された桜と新橋の写真は、結果として出来が良くなかったためか採用されず、結局、渡初式当日の写真をもとに郵政省のデザイナー・吉田豊が作成した原画が二四円切手に取り上げられています。なお、写真そのものではなく、写真を元にした絵が切手の原画として採用されたのは、橋を支える特殊な框組を明瞭に描くためと説明されました」(『濫造・濫発の時代 1946-1952』より)
 

「錦帯橋」10円切手 1953年発行

「錦帯橋」24円切手 1953年発行

こうして10円と24円の2種が、前回の昇仙峡から遅れること1年半後の1953年5月3日に発行されました。10円は赤褐色、24円は水色のグラビア印刷で、それぞれ450万枚と100万枚が作られました。10円の図柄は、初代広重の版画『六十余州名所図会』の「周防岩国錦帯橋」を縮写しています。広重の版画が10円に用いられたことについては当時の『京都寸葉』には、
 
「今後岩國市では大いに内外観光客の誘致に乗り出し、外貨の獲得にも努めるとのことだが外國向二十四圓切手はその宣傳の使命を果すのに一役も二役も買うであろう。外國向宣傳のためには廣重版画を二十四圓にあてた方がよかつた、との批評があるかも知れぬが、この観光切手シリーズでは低額を縦、高額を横と一定しており、廣重版画を横にするのは不適当であろう。ともあれこのシリーズに版画を登場させたのは、最初にしてかつ最後ということになつた。」
 
 
とあります。確かに24円の方を広重の版画にしたほうが良かったのではと思ってしまいますが、切手の図案を決めるには様々な制約があることがわかります。
それをふまえて、過去の観光地百選切手と見比べてみると…。
 

 

1951年に最初に発行された「蔵王」や切手旅でご紹介した「昇仙峡」と、今回の「錦帯橋」、明らかに額面もその表記も変わっています。これは国内書状料金が1952年11月に8円から10円に値上げになり、さらに1953年5月に料額数字が銭単位切り捨てとなり、ゼロ付きからゼロなしに改められたことによります。大きな画期を経て見慣れた額面表記となり、それまでのものと比べるとすっきりとした印象を受けますよね。郵便学者の内藤陽介氏は、
 
「なにより、一九五二年四月の講和条約発効により、「錦帯橋」のみが占領時代とは異なる独立後の空気の中で発行されることになり、「昇仙峡」以前の切手とはどことなく違った雰囲気をかもし出すことになったものとも考えられます。こうしてみると、「昇仙峡」と「錦帯橋」との間には、一つの時代の終焉を示す痕跡がしっかりと刻みつけられているように感じられてなりません。」(『濫造・濫発の時代 1946-1952』より)
 
と、シリーズ切手の中に見られる切手の歴史に思いを寄せています。
 
そして、もうひとつ「錦帯橋」切手が画期となっている事柄があります。それは「錦帯橋」24円が、UPU色の最後の切手であるということ。
UPU色とは、外国からの郵便物が適正に料金納付されているかどうか、切手の色だけで判断できるようにするために、1882年の万国郵便連合UPUの理事会で決議された刷色を指します。加盟各国共通で、外国郵便の基本料額切手の刷色を、印刷物は緑、はがきは赤、書状は青にすることが決められました。これを受けて、日本では旧小判切手の刷色を1銭=緑・2銭=赤・5銭=青に改めて、1883年1月1日から発売しました。いわゆるU小判と呼ばれる切手です。
その後、UPU色は1952年開催の大会議で、切手の多色刷りが増えて色の統一が難しくなったことを理由に廃止が決まります。規定廃止の発効は1953年の7月1日とされ、70年の歴史に幕を閉じることになりました。日本ではこの70年間に、151種のUPU色切手と20種のUPU色はがきが発行されました。
 
その、UPU色外信書状基本料金用切手の最後に発行されたのが、この「錦帯橋」24円切手なのです。決議から発効までの猶予期間中で、UPU色廃止までわずか2カ月足らずの5月3日発行でした。涼やかな水色で刷られていて、錦帯橋を渡る風と錦川の水面の色のイメージにぴったりだな、などと思っていたのですが、この青にそんな意味があるとは!
切手を追いかけていると、自動的に郵趣史や日本史の勉強になります。郵趣家の方に博学が多いのもうなずけますね。
 

渡って良し、眺めて良しの、美しき錦帯橋へ

 
では、錦帯橋を渡りに行きましょう。
最寄駅は、遠方からなら山陽新幹線の新岩国駅、宮島観光などと組み合わせて訪れるなら、山陽本線の岩国駅となり、いずれもバスで15~25分前後です。また岩徳線の川西駅からは徒歩20分ほどで行くこともできます。
武家屋敷が築かれた西側(山側)からでも、城下町のある東側からでも渡ることができますが、遠くに復元された岩国城を望む東側から渡るのがやはり気分が盛り上がります。
 
橋の向こうの山の上に、復元された岩国城が見えます。お城が見えることで、この橋が城門橋であることがわかります
 
切手や写真で目にしたことがあっても、本物の迫力には敵わないことを教えてくれる名橋。私も初めて渡った時、よく作ったものだととても感動しました。渡ってみると想像以上に斜度があり、中3連は階段状になっています。そして河原から見上げてみれば、その構造は複雑で、どれだけ目を凝らしてもどうなっているのか分からないほど細かく組み上げられていることがわかります。
 
マツ、ヒノキ、ケヤキ、ヒバ、クリ、カシの6種の木材を、その個性を活かした「適材適所」で組み上げています。
橋板には木曽ヒノキを使用しており、中には樹齢200年以上もの部材もあるそう。

「どうなってんの、これ?」と私は一目見ただけで、構造を理解することを諦めました(笑)
この細かさは、残念ながら切手だけじゃ伝わらないのではと思います

橋から見た橋脚部分。この独特の形が「流されない橋」の特徴のひとつです

 
細かな構造の解説については錦帯橋の公式ホームページに譲りますが、少しずつ桁材をずらして前に迫り出させ、間に楔を入れて梁で固定し、中央には大小の棟木を入れてアーチを構築するという築城技術を応用した組木技法は、もはや芸術。また、橋上から見るとまるでラグビーボールのような形の橋脚は、水流を相殺させてダメージを軽減させる工夫が施されていて、その曲線がこれまた美しいのです。
1951年に流出した後の再建時からは、鉄筋コンクリートや沓鉄、和釘、鎹が用いられていますが、それまでは木材と石材、巻金(まきがね)という帯鉄で作られていました。現在では「釘は一本も使われていない」という表現を使うことはしていないそうですが、かつては独特のアーチ構造を木と石と巻金で作ることへの誇りを込めて、そう褒め称えていました。
 
錦帯橋に関する古図面は、架橋から26年後の1699(元禄12)年のものから、1826(文政11)年まで12枚が現存しています。橋はもちろんのこと、こうした記録も詳細に残しているところに、橋に掛ける誇りを感じます。しかし大工技術は「口伝」に依るところも大きいとされています。
古文書によれば、桁橋は約40年ごと、アーチ橋は約20年ごと、橋板や高欄の取り替えは約15年ごとに行うことで、技術の伝承をはかってきました。戦後、鉄筋コンクリートなどを用いるようになったことで、現在は橋の架け替えは50年に一度になっています。そのため、2002年から3年かけて行われた平成の架け替えでは、幅広い世代から大工を起用し、ベテランから若者へと文字や図では伝えられない勘所が伝承されるようにして、将来に備えたといいます。こうした現代技術だけに頼らない、古来よりの大工の技に重きを置いて守り伝えているところにも、じわりとした感動を覚えます。

夏には鵜飼が行われます。かがり火に映える橋は幻想的ですね(写真提供:岩国市観光振興課)

遊覧船もあります。川面から眺める錦帯橋はまた趣が違って良さそうです(写真提供:岩国市観光振興課)

 
いろいろな技に目を凝らしつつ、景色も楽しんで、じっくりゆっくり渡って欲しい錦帯橋。桜、青葉、紅葉、雪景色と、四季折々の自然との相性も抜群ですので、ぜひ傑作を撮るつもりで、カメラ片手に訪ねてみてくださいね。
 
さて、橋を渡ると、錦帯橋を架けた吉川広嘉像や吉川家の氏神社である吉香神社、家老・香川家長屋門、武家屋敷遺構の旧目加田家住宅などが点在する吉香公園が広がっています。
公園内にはロープウェイがあり、標高約200mの横山山頂を結んでいます。この山頂に築かれていたのが岩国城です。
初代・吉川広家が1608年に防御性を重視して築城したのですが、その後発令された一国一城令により1615年には廃城となり取り壊され、吉川家は山麓の居館で政務を行いました。現在の城は1962年に、錦帯橋から見えやすいように少し位置をずらして復元されています。一方、石垣など一切が取り壊されたと思われていた天守台ですが一部が現存しており、古式穴太積みという強固な技法で1995年に発掘復元されています。

錦秋の吉香公園。まさに今頃はこんな光景が広がっているはず(写真提供:岩国市観光振興課)

国の重要文化財に指定されている、中級武家屋敷の旧目加田(めかだ)家住宅。
錦川が氾濫することを想定して二階が設けられています(写真提供:岩国市観光振興課)

ロープウェイ山頂駅からは吉香公園や錦帯橋はもとより、岩国航空基地や岩国錦帯橋空港、
そして瀬戸内海の島々や四国、宮島までの眺望が開けます(写真提供:岩国市観光振興課)

わずか7年しか実在しなかった岩国城ですが、復元されて錦帯橋と
共に多くの人が訪れる存在に(写真提供:岩国市観光振興課)

 
さて、橋とお城を見たなら、岩国名物も味わいましょう。
別名「殿様寿司」とも呼ばれる、400年の歴史を誇る「岩国寿司」は、木枠に具材を何層も重ねて作る押し寿司。初代・広家の好物だったそうで、郷土料理として錦帯橋付近のレストランなどで食べることができます。一度に4~5升も作っては包丁で切り分ける豪快さと、名産の岩国レンコンや瀬戸内の魚介類を入れるのが特徴です。私は以前、錦帯橋のたもとにある「ひらせい」さんの岩国寿司をお土産にして、新幹線の中でいただいたことがあります。旅の最後を、岩国の優しくも味わい深いお寿司で締めくくるのもオススメですよ。
 
鮮やかな桜色の鯛でんぶと甘辛く煮た椎茸がアクセントの「ひらせい」さんの岩国寿司
 
岩国は、作家・宇野千代氏の故郷でもあります。旧山陽道沿いの生家を宇野氏自身が復元し、現在は資料館として公開されています。紅殻格子と白漆喰の壁がとても美しく、街並みに風情を添えています。街を歩けば、岩国を舞台に描いた代表作『おはん』の風景をあちこちに見ることができ、また宇野氏が通った小学校や墓所などもあり、ファンなら必見の街歩きが楽しめますよ。
 
錦帯橋一帯だけだと、街の雰囲気がわかりません。時間があれば
ぜひ、城下を歩いてみてください(写真提供:岩国市観光振興課)
 
さて、ここから先はヘビが得意な人だけご覧くださいね。
私、15年ほど前に錦帯橋を再訪したときに、白蛇を展示している施設を訪ねた覚えがあり、しかし錦帯橋とヘビってなんだか不釣り合いな気がして、あれはマボロシだったかな? と思いながら、今回調べてみましたら…。なんと、世界でも岩国の限られた地域にしか生息しない天然記念物の「岩国のシロヘビ」でした。アオダイショウのアルビノ種で、形質が遺伝で維持されている学術価値の高い種だといいます。
 
「起源は明確ではありませんが、約400年前、岩国へ移封された藩主吉川広家が錦見一帯で米作りに努めた頃、多くの米倉でネズミをエサにしていたアオダイショウが色素細胞のない変種で、それが遺伝し生まれてきたとされています。
当時の人々がこの珍しいヘビを有益で幸運を呼ぶ家の守り神として大切に保護して、その数を増したと考えられています。」岩国市公式観光webサイトより
 
つぶらな瞳がキュートなシロヘビ。偶然見かけることができたら超ラッキーですね
(写真提供:岩国市観光振興課)

アルビノは突然変異で生まれるものですが、岩国では遺伝しているとは驚きです。吉香公園内の「岩国シロヘビの館」では実際にシロヘビを見ることができます。金運アップのご利益があるそうですので、爬虫類が苦手でなかったら、ぜひ旅の記念にご覧になってみては?
 

風景印のお土産も忘れずに!

 
錦帯橋とサクラのデザインの岩国郵便局の風景印
 
今回は岩国駅の近くにある、岩国郵便局から郵頼で風景印をいただきました。岩国の風景印は戦前から錦帯橋がメインの堂々たる印面。傍らにサクラを配する構図も変わらないですし、当初は切手にも桜が描かれる予定でしたし、イチオシの季節は春ということになりましょうか。
 
錦帯橋と桜。夜は一段とロマンチックです。夜10時までライトアップされています(写真提供:岩国市観光振興課)
 
個人的には古い建築物には、力強く生き生きと漲る生命力が対比する様子が好きなので、私は初夏から夏に訪ねるのが好きです。みなさんはいかがですか? 
 
ちょうど今は紅葉が見頃。こうして写真を見ると、秋も捨てがたい!(写真提供:岩国市観光振興課)
 
*****
 
岩国・錦帯橋の切手旅はいかがでしたか?
名橋、奇橋といわれる橋が日本にはいくつかありますが、こうして架橋に掛ける人々の想いや匠の技の粋を知ると、どの橋にもドラマがあることが伺えます。切手片手に橋めぐりに特化するのもおもしろいかも、とちょっと思ってしまいました(こうして深みにハマっていくのでしょうか)。
では次回もお楽しみに。
 
※1 風景印とは消印の一種で、風景入り通信日付印の略称。大きさは直径36ミリ。郵便局のある地域の名所旧跡や特産品、ランドマークなどが描かれています。手紙やはがきを出すときに、郵便局員さんに「風景印でお願いします」といえば、風景印を押して配達してくれます。また、はがき料金(2021年現在は63円)以上の切手を貼ったはがきや封書、台紙を用意して「風景印の記念押印」をお願いすれば、風景印を押して手元に返してもらえます。これを再び投函・郵送することはできませんが、記念品として手元に残すことができるので、風景印を集めることを趣味としている郵趣家もたくさんいます。
※2 「郵頼」とは、文字通り郵便を使って風景印を頼む方法。どこに風景印を押印してほしいのかを記載した指示書とともに、63円以上の切手を貼った台紙(封筒でも官製はがきでもポストカードでも可)と返信用の封筒(宛先と84円切手を貼付)を添えて郵送します。指示書は端的に、明確な文章を心掛けましょう。「〇〇郵便局 風景印押印 ご担当者様」宛で、どこに、どう風景印を押印してほしいのかを図示し、日付の指定があれば明記します。どうして貴局の風景印が欲しいのか、などの細かな理由を長々と記載する必要はありません。「郵頼」の対応は、郵便局員さんが業務の合間に善意でやってくれることなので、わかりやすい指示書が好まれます。
 
【参考文献】
・『京都寸葉』第227号 京都寸葉会 1950年10月21日発行 
・『京都寸葉』第228号 京都寸葉会 1950年11月21日発行 
・『京都寸葉』第310号 京都寸葉会 1953年2月11日発行 
・『京都寸葉』第318号 京都寸葉会 1953年5月1日発行
・『京都寸葉』第319号 京都寸葉会 1953年5月11日発行
・『京都寸葉』第321号 京都寸葉会 1953年6月1日発行
・『切手』第1巻第9号 全日本郵趣連盟 1953年4月26日発行
・『月刊ゆうびん』5月号(第4巻第5号) 逓信協会郵便文化部 1953年5月1日発行
・『郵趣』1997年11月号 日本郵趣協会発行
・「観光地百選切手(その1、発行のいきさつ)」神宝浩『Port Phila』No.129 JPS横浜港北支部 2001年2月発行
・「観光地百選切手(その11)」神宝浩『Port Phila』No.139  JPS横浜港北支部 2001年12月発行
・『濫造・濫発の時代 1946-1952』(解説・戦後記念切手) 内藤陽介 日本郵趣出版発行 2001年12月
・『風景印大百科 1931-2017 西日本編』日本郵趣出版発行 2017年5月
・『もの知り切手用語集』改訂版第9刷 日本郵趣協会発行 2019年1月
 
【参考ホームページ】
岩国市公式観光webサイト http://kankou.iwakuni-city.net/
錦帯橋 岩国市公式ホームページ http://kintaikyo.iwakuni-city.net/
ひらせい http://www.hirasei.jp/
 
【写真提供】
岩国市公式観光webサイト
PAGETOP
Copyright © 切手の博物館 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.