切手旅第2回は、東京の日本橋です。
ご紹介する切手は、日本橋をテーマにした“最初”と“最新”の2種。
1962(昭和37)年発行の「国際文通週間」切手の「日本橋」(上)と、2020(令和2)年発行の「江戸―東京シリーズ」第1集「日本橋」(下)です。
日本橋は今も昔の「東京」の中心!
みなさんは日本橋を渡ったことがありますか?
「東京」というと、銀座や渋谷、お台場、浅草などが思い浮かびますが、道路標識に表される「東京まで〇〇Km」が示す「東京」の多くは、ここ日本橋のこと。橋の中央には、日本の道路の原点としての役割を担う「道路元標」が、埋め込まれています。日本中に広がる道路網の中心は日本橋であり、大げさに言えば、日本橋を渡らねば “東京に着いた” とは言えないのです。
橋の歴史は、江戸時代とともに始まります。征夷大将軍に任じられた徳川家康は、1601(慶長6)年から江戸を起点に各地を結ぶ街道整備に着手し、東海道・甲州街道・奥州街道・日光街道・中山道の五街道を整えました。そして1603(慶長8)年に日本橋を架け、翌1604(慶長9年)に五街道の起点に定めたのです。
家康は運河を掘削するなど舟運の整備にも力を入れており、橋の下を流れる日本橋川は水路の重要なポイントでもありました。陸路・水路の要となった日本橋は、まさに江戸の中心たる賑わいをみせていました。
当時の日本橋は木製の太鼓橋で、橋上からは江戸城や東京湾、そして富士山を遠望することができたそう。現在の高速道路に覆われた日本橋からは想像できない、ワイドビューが広がっていたんですね。
その様子は多くの絵師たちが浮世絵に残しています。その代表作のひとつが、今回取り上げる切手の図案にも用いられている、歌川広重の保永堂版東海道五十三次「日本橋 朝之景」でしょう。
その様子は多くの絵師たちが浮世絵に残しています。その代表作のひとつが、今回取り上げる切手の図案にも用いられている、歌川広重の保永堂版東海道五十三次「日本橋 朝之景」でしょう。
早朝の日本橋。手前には天秤棒を担いだ魚屋たち、そして橋の向こう側からは朝立ちの大名行列が渡ってくる様子が描かれています。当時、橋の北岸には魚河岸があり、関東大震災後に築地に移るまでの300年余、近海の鮮魚が集められ賑々しく取り引きされていました。一日に千両の取引があったともいわれ、日本橋は江戸で最も活気のある場所の一つだったのです。この魚河岸があったからこそ、鰹節の「にんべん」や乾物の「八木長本店」、海苔の「山本海苔店」など海産物の老舗が多いんですね。
ひっきりなしに人々が行き交う太鼓橋、眼下には荷をたくさん積んだ舟・舟・舟。ふと目を上げれば、江戸城の威厳ある姿…。江戸の喧騒を、橋の上でぜひ想像してみてください。
木製の日本橋は火災などで19度の架け替えを経て、1911(明治44)年にルネサンス様式の石造二連アーチ橋となり、現在に至ります。麒麟や獅子のブロンズ像と共に、関東大震災の火災の跡や東京大空襲の焼夷弾の跡なども残っており、まさに歴史の生き証人。1999(平成11)年には、国の重要文化財に指定されています。
1991年の架橋80周年記念行事にて橋詰広場の整備が行われ、南東詰に「滝の広場」、南西詰に「花の広場」、北東詰に「乙姫広場」、北西詰に「元標の広場」の4広場が完成し、憩いの場となっています。橋の細部の意匠を眺め、4広場をめぐるだけでもちょっとした歴史散歩ができますよ!
東海道五十三次から始まった「国際文通週間」シリーズ
では、日本橋を図案にした最初の切手について触れていきましょう。この切手は「国際文通週間(International Letter Writing Week)」という、現在も続いている特殊切手シリーズの5回目の切手として、1962年に発行されました。
「国際文通週間」とは10月9日(万国郵便連合条約の調印日)を含む1週間、各国に適した方法で催すもので、1957年8月にカナダのオタワで開かれた第14回万国郵便連合大会議で、アメリカ代表の提案が満場一致で賛成されたことに始まります。その目的は、国境を越えて交換される郵便を用いて、お互いの思想や生活に関して相互理解と知識を深め、国際平和の実現と自らの教養を高めること。
これを受けて翌1958年に最初に発行されたのが、歌川広重の保永堂版東海道五十三次「京師」。当初は1回限りの発行で、凹版ザンメル印刷(※1)の切手第一号とする予定でした。
「切手を出すにあたって、はじめは1回限りの計画で、当時まだ新しい試みであった凹版ザンメルによるものが立案され、これが第1候補であった。第2候補として、東海道53次のうちの1枚を多色グラビアで印刷するものがあげられていた。ザンメルの製版はかなり進んだが、一方、グラビア用の下絵の検討も重ねられ北斎や広重などのものがあらためて候補にあげられ、その結果、1回かぎりでなく特殊切手として毎年発行することに決定をみた。」(『郵趣』1961年8月号)
切手旅第1回の「松島の五大堂」で紹介した凹版ザンメル印刷にするか、グラビア印刷にするかの検討があったことが記されています。ザンメル印刷の原画候補は久野実技芸官による、封筒をくわえたハトと地球を描いた作品だったそうですが、最終的に逓信博物館所蔵の保永堂版「東海道五十三次」から「京師」が採用され、以降59年「桑名」、60年「蒲原」、61年「箱根」と続き、62年に「日本橋」が発行されました。
ところでグラビアというと、週刊誌の巻頭を飾るグラビアアイドルを連想してしまう、という方もいらっしゃるかもしれません。いえいえ、間違いではありません。グラビアアイドルのグラビアは、グラビア印刷のこと。凹版印刷の一種で、凹みに流し込むインクの量の多少により細かな濃淡まで表現できるので、特に写真印刷に適しているとされています。そのため「グラビア印刷のカラー写真ページに載るアイドル」ということでグラビアアイドルと呼ばれているわけです。(※2)
切手にもこのグラビア印刷が用いられており、国際文通週間の切手は日本のグラビア多色刷印刷の技術力を国内外に知らしめることにも一役買ったのです。
切手にもこのグラビア印刷が用いられており、国際文通週間の切手は日本のグラビア多色刷印刷の技術力を国内外に知らしめることにも一役買ったのです。
現在でも国際文通週間の切手を定期的に発行しているのは、日本とタイのみ。こんなピースフルなキャンペーンを1958年から毎年続けているなんて、ちょっとすごいと思いませんか?
電子メール全盛の昨今ですが、折しももうすぐ国際文通週間が始まります。昨年、歌川広重の「東海道五十三次」の全55作品が発行完了し、今年は新たに葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「常州牛堀」「遠江山中」「江戸日本橋」の3種が発行されます。奇しくも日本橋が含まれていて、この連載とのご縁を感じてしまいました。この秋は、手紙の持つ力を再認識してみるのも良いかもしれません。
※1 ひとつの版面に異なる2~3色のインキをのせて一度に印刷する多色刷り技法。詳しくは、切手旅第1回「日本三景 松島」https://kitte-museum.jp/kenkyu/kittetabi/kittetabi001/ を参照。
※2 現在はグラビア印刷ではなく、オフセット印刷が主流になっています。
日本橋老舗めぐり ~老舗といえるのは創業100年を超えてから~
さて、お次は日本橋の街の老舗めぐりへと参りましょう。江戸時代も後期になると、東京の人口は120万人に達し、世界有数の大都市へと成長しました。それにともない「食」や「技」を商う店が次々と日本橋にうまれ、現在へと続く老舗となりました。江戸時代創業の店がそこここに残る日本橋では、老舗といえるのは100年を超えてからなのだとか。いやはや驚きです。
今回は切手旅らしく、切手を参考にいくつかの老舗を回ってみました。2020年の6月に発行された「江戸―東京シリーズ」第1集「日本橋」は、ワンデートリップのガイドブックにぴったり。日本橋界隈の小物、食べ物、建築などが取り上げられています。
榛原(はいばら)
最初に向かったのは、創業1806(文化3)年の和紙の老舗、榛原です。2015年の再開発に伴い建て替えられた本店はモダンな雰囲気ですが、初代佐助が日本橋に和紙・小間物販売店を開業して、現在七代目を数えます。
看板商品である雁皮紙(※3)をはじめ、全国の職人の手仕事による良質な和紙を取り揃えるほか、木版摺りの金封の伝統技術を今に伝えています。また、柴田是真や河鍋暁斎、鏑木清方、川端玉章、竹久夢二などの明治・大正期の絵師とも交流があり、彼らのデザインによるオリジナルの千代紙や、小物類、便箋、うちわなどは時代を超えて愛されています。歴代のお客さまには、皇室や総理大臣からクイーンのフレディ・マーキュリーまでという幅の広さ! 榛原の手がける紙の品質の良さはもちろん、和紙は世界に通じる美しさと強さがあることを教えてくれます。
そして郵趣の世界において榛原といえば、明治期に最初の官製はがきを製造したことで知られています。
日本で最初に切手が発行されたのは1871(明治4)年、その2年後の1873(明治6)年に最初の官製はがきを発行しています。薄手の紙を二つに折って封をせずに送るもので「二つ折りはがき」と呼ばれ、発行時期により「紅枠はがき」「脇つきはがき」「脇なしはがき」があります。使い勝手の良いはがきは急速に普及し、発行からわずか1年半で、月に30万枚以上も売り上げるようになりました。この「脇つきはがき」と「脇なしはがき」を、榛原が製造していたのです。
1875(明治8)年には二つ折りはがきは廃止され、現在のようなカードタイプの官製はがきの発行へと転換しました。2年ほどの期間でしたが、郵便黎明期の一端を榛原が支えていたと聞くと、その伝統と技術を系譜する和紙や便箋には、郵便の歴史をも漉き込まれているような気がしてきます。
そんな榛原の商品の中で、私が愛用しているのが「蛇腹便箋」です。何かを送るときに「ちょっと一言添えたいな」と一筆箋に書き始めたものの二枚三枚と及んでしまい、これならふつうの便箋でよかったかも、なんてことがよくある私。この「蛇腹便箋」は、一枚一枚が一筆箋サイズではありますがミシン目でつながっているので、書き終わったところでピリピリと切り離せます。まるで書状のように蛇腹に畳んで送ることができるところに、おもしろみを感じています。
「手紙なんて最近書いていないなぁ」という方にこそ訪ねてほしい榛原。きっと手紙が書きたくなりますよ。
株式会社 榛原(はいばら)
住所:〒103-0027 東京都中央区日本橋2-7-1 東京日本橋タワー
※3 雁皮というジンチョウゲ科の落葉低木の皮で作られた和紙のことで、きめが細かく光沢があるのが特徴。筆あたりは柔らかいのに強靭で、害虫にも強く変色しにくいことから、平安時代から経典や書籍にも用いられてきました。
榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)
続いて向かったのは、1818(文政元)年創業の榮太樓總本鋪。今年の8月1日にリニューアルオープンしたばかりの本店は、江戸の長屋の街並みをイメージした意匠で、瀟洒な雰囲気。百貨店などに展開していた5つのブランドを集結させたフラッグシップ店舗として、職人の実演コーナーを構え、出来立てを提供する和菓子カフェ「Nihonbashi E-chaya」も併設しています。
ちょうど実演コーナーで職人さんが金鍔を焼いていました。江戸時代、日本橋の魚河岸に集まったお客さんを相手に、屋台で売り始めたのがルーツという名代金鍔は、ごま油を鉄板に引き、丁寧に返しながら焼いていきます。食い入るように見ていたら、「上の黒胡麻は、昔はのせてなかったんだけど、やっぱり付加価値をつけないと、ってことでのせるようになったんですよ」と職人さん。そんな秘話が聞けるのもライブならでは。私はお土産にしましたが、カフェで焼き立ての熱々をいただくこともできます。
日本橋の老舗とコラボした繁盛団子も、老舗めぐりにはおすすめ。榮太樓伝統の歯切れのよい餅に、惜しみなく盛られた山本山の海苔と、にんべんのかつお節。どちらも香り高く、日本橋の歴史を口いっぱいに頬張る贅沢感がたまりません。いずれの老舗も切手に登場しているので、切手旅には欠かせない一品と言えそうです。
今度老舗巡りをするときには、切手に描かれたあんみつも味わいたいと思っています。
株式会社 榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)
住所:〒103-0027 東京都中央区日本橋1-2-5
日本橋郵便局
職人の技に触れ、お土産も手に入れ、ほくほく顔で日本橋郵便局へ。
この日本橋郵便局が建つ場所は、1871(明治4)年の近代郵便制度発足時には駅逓司と東京郵便役所(※4)が置かれていたところ。それまでの飛脚制度に変わり、ここから近代郵便制度が始まったのです。
1962(昭和37)年には郵便創業90周年を記念して、「郵便制度発祥の地」の記念碑と、近代郵便制度創設に尽力した前島密の胸像が建てられており、いわば郵便の聖地といえましょう。
切手旅ですから、この記念すべき場所を訪れないわけにはいきません。切手にも描かれている前島密の胸像をカメラに収め、風景印(※5)をいただきました。
※4 駅逓司は、通信・郵便事務を統括する中央機関のこと。駅逓寮、駅逓局と改称され、その後、逓信省、郵政省となり、現在の日本郵政株式会社につながります。郵政役所は、その取扱機関として、東京、大阪、京都に設けられました。
※5 風景印とは消印の一種で、風景入り通信日付印の略称。大きさは直径36ミリ。郵便局のある地域の名所旧跡や特産品、ランドマークなどが描かれています。手紙やはがきを出すときに、郵便局員さんに「風景印でお願いします」といえば、風景印を押して配達してくれます。また、はがき料金(2020年現在は63円)以上の切手を貼ったはがきや封書、台紙を用意して「風景印の記念押印」をお願いすれば、風景印を押して手元に返してもらえます。これを再び投函・郵送することはできませんが、記念品として手元に残すことができるので、風景印を集めることを趣味としている郵趣家もたくさんいます。
日本橋めぐりの会
「江戸―東京シリーズ」第1集「日本橋」にはまだまだ老舗がたくさん載ってきます。ひとりで訪ねるのはちょっと心もとない、せっかくだから詳しい説明が聞きたい、そんな方には「日本橋めぐりの会」のツアーがおすすめです。案内人の川崎さん(いなせな出で立ちにも注目です!)のお話だけでなく、お店の人にもお話を伺うことができるので、生の声、生の技に触れることができるんです。
私が参加した時は、切手にも描かれている「うぶけや」(※6)にお邪魔し、店舗だけでなく、刃物を研ぐ工場を見せていただきました。川崎さんと一緒なら、敷居が高そうな老舗や普段なら素通りしてしまいそうな老舗も訪ねることができます。
日本橋は解説があるとぐっと深みが増し、文化の色濃い大人の街に変わります。コロナ禍につき、現在は5人以内の少人数でのオーダーメイドツアーのみ催行しているとのこと。いかに長い歴史を生き抜いてきた老舗とはいえ、今回の新型コロナウィルスによるお客様の減少は、大きなダメージだそうです。老舗を助けるためにも、ぜひご利用してみてはいかがでしょうか。
※6 1783(天明3)年創業の打刃物の老舗で、現在は8代目。初代・㐂之助の打つ刃物が、赤ちゃんのうぶ毛も剃れる(包丁・かみそり)、切れる(はさみ)、抜ける(毛抜き)との評判から、店名がつけられました。日本で初めて、洋裁用の裁ちばさみを製造販売したのも「うぶけや」と言われています。
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今回も盛りだくさんな内容になってしまいましたが、江戸から令和まで、いつでも日本橋は人々を惹きつける街だということがわかりました。切手を手掛かりに旅すると、いろいろな事柄に触れることができ、我ながら驚いています。次回もお楽しみに。
【参考文献】
・日本橋「花の広場」「乙姫広場」「元標の広場」案内看板
・『郵趣』1961年8月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1962年9月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1962年10月号 日本郵趣協会発行
・『切手』294号 全日本郵便切手普及協会発行 1958年10月5日
・『切手もの知りBOOK』田辺龍太 切手の博物館発行 2019年1月
・『もの知り切手用語集』改訂版第9刷 日本郵趣協会発行 2019年1月
・『ビードロ・写楽の時代 グリコのオマケが切手だった頃 1952-1960』(解説・戦後記念切手Ⅱ) 内藤陽介 日本郵趣出版発行 2004年3月
・「脇付きはがき/脇なしはがきは榛原直次郎製造」大島正昭 『郵趣研究』2002-4通巻47号 2002年
・『二つ折りはがき 日本国際切手展2001』 大島正昭 私家版
・『二つ折りはがきハンドブック 脇付・脇なしの版別』(上)(下) 澤まもる・大沢正昭 日本郵趣協会 1997年
・「日本の官製はがき類 概論」田辺龍太 『日本の官製はがき類 切手の博物館所蔵品目録2004』財団法人切手の博物館 2004年
【参考ホームページ】
日本郵政株式会社 https://www.japanpost.jp/
株式会社榛原 https://www.haibara.co.jp/
株式会社榮太樓總本鋪 https://www.eitaro.com/
日本橋菓房株式会社「日本橋について」 https://www.nihonbashi-kabou.co.jp/nihonbashi
名橋「日本橋」保存会 https://www.nihonbashi-meikyou.jp/index.html
【写真協力】
株式会社榛原 https://www.haibara.co.jp/
株式会社榮太樓總本鋪 https://www.eitaro.com/