切手と遊ぶ発見ミュージアム

切手旅第7回「水戸 偕楽園」

切手旅の第7回の舞台は、茨城県水戸市にある偕楽園です。
ご紹介する切手は、1966(昭和41)年発行の日本名園シリーズ「偕楽園」です。
 

日本名園シリーズから「偕楽園」(1966年発行)


日本三名園のひとつ、梅の名所「偕楽園」

 
茨城県の県庁所在地である水戸は、東京・上野からは特急で1時間ほど。日帰り旅行にも最適な距離にあり、東は大洗海岸、西には筑波山や日光連山を望みます。水戸といえば、多くの方のイメージは、黄門様と納豆と偕楽園の3つに絞られるのではないでしょうか。そして訪ねる時期といえば、梅の見ごろの2、3月が人気のようです。かく言う私も水戸には数度訪れていますが、すべて早春の観梅が目的でした。
 
令和の年号の由来も観梅の宴でしたね。色彩の少ない早春にともしびのように
花をつけ、春の香りを届けてくれる梅は、私も大好きです
 
偕楽園は「日本三名園」のひとつとしても知られています。日本三名園とは、
・茨城県水戸市の偕楽園
・石川県金沢市の兼六園
・岡山県岡山市の後楽園
で、今回ご紹介する名園シリーズ切手で発行された3種でもあります。いずれも江戸時代に造られた池泉回遊式の大名庭園で、国の特別名勝に指定されています。池泉回遊式庭園というのは大きな池を中心に築山や池の中の小島、そこに架かる橋などで日本各地の景勝を表わした庭園のことで、園路を廻るたびに異なる景観に出会えるのが魅力です。
 
加賀藩5代藩主の前田綱紀にはじまり、歴代藩主がそれぞれに作庭を続けた兼六園。神仙思想に基づき、
大海に見立てた池に仙人が住むという島が配されています。雪吊りが見たくて冬に訪ねましたが、
格別の美しさでした(写真提供:石川県観光連盟)
 

岡山藩2代藩主の池田綱政が、藩主のやすらぎの場として作らせた、後楽園。私は高校の修学旅行で訪れ、
こんな美しい庭園が世の中にあるんだ!と驚き、庭園好きになるきっかけとなった場所です
(写真提供:岡山後楽園)

偕楽園を造ったのは水戸藩第9代藩主の徳川斉昭(徳川第15代将軍・慶喜の父)で、天保13(1842)年に開園しました。第2代藩主である徳川光圀(黄門様)だと思い込んでいましたが、違うんですね! 斉昭は先立つこと天保4(1833)年には藩内を一巡して、眼下に千波湖を臨む高台を藩内一の景勝地として、庭園の場所を定めています。そして造園に際しては自ら構想を練り、特に切手にも描かれている好文亭については立地や建築意匠にもこだわったと伝えられています。

偕楽園の名は、中国の古典『孟子』の一説、「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」から取ったもので、藩主が藩士や庶民と楽しみを同じくすることを意味しています。斉昭はこの偕楽園が、身分を超えて民と共に楽しめる場であり、藩士が気を張り詰めてばかりではなく時には心身を緩めて安らげる場であることを願って造ったのです。この時代に公開庭園を造るという先駆的な発想もすばらしいですし、民思いの良い藩主だなぁと感心してしまいます。
 
偕楽園をどのような思いで作ったかが書かれた「偕楽園記」碑。斉昭直筆の隷書・漢文で
記されており、禁止行為6ヵ条は公園管理の先駆とも言われています
 
さて、2月はまさに偕楽園が華やぐ季節。園内には、約100品種、3000本の梅が植えられ、早咲き・中咲き・遅咲きと長い期間にわたって観梅を楽しむことができます。一般社団法人水戸観光コンベンション協会のホームページでは梅の開花状況がチェックでき、2月22日現在は約47%とのこと。コロナ禍では、思い立ったらすぐお花見へ、というのは難しいですが、こうしたリアルタイムな情報は嬉しいですね。白から紅までのグラデーションに彩られた梅林を想像するだけでも心が浮き立ちます。
 
「水戸の六名木」といわれる、特に花の形、香り、色などが優れている梅をはじめ、さまざまな梅を楽しむことができます。
今年の梅まつりは緊急事態宣言発出により遅れましたが、3月1日から開催されます
 
梅は、晋の武帝の故事「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」にちなみ、「好文木」とも呼ばれています。医学をはじめとした学問熱心な水戸藩にはぴったりの花ですが、偕楽園が梅の名所になったのはそれだけが理由ではありません。そもそも水戸には梅は多くなかったそうですが、春まだ浅いうちから花を咲かせる梅を斉昭が元来好きであったこと、さらにその実は梅干しとして戦時の非常食にもなるということで、江戸の藩邸から梅の実を採取して送り、偕楽園やその近郊、士民の家々にも梅を植えさせたといいます。「梅の備えがあれば、患(うれ)いなし」と『種梅記』に記した斉昭ならではの、様々な思いを具現化した庭園が偕楽園なのです。
 

日本名園シリーズ「偕楽園」切手ができるまで

 
ではまず「偕楽園」切手の発行を知らせる報道資料から見ていきましょう。
 
昭和四十年十二月九日 郵政省
日本名園シリーズ郵便切手の発行
郵政省では、わが国が誇る庭園美術を内外に紹介する目的で、日本名園シリーズ郵便切手の発行を計画していたが、その第一集として、好文亭と梅林で有名な「水戸・偕楽園」を画題とした次のような十円郵便切手を二月二十五日から発売するよう準備を進めている。
1.意匠 好文亭に梅花を描く
2.版式 グラビア(三色)
3.印面寸法 縦三十三ミリメートル 横二十二.五ミリメートル
4.シート構成 二十枚(縦五枚 横四枚)
5.発行数 二千四百万枚
6.原画作者 久野 実(職員)
 
 
報道発表だけを見ると、しっかり準備をして満を持しての発行かと思いきや、実は割り込みで発行が決まった大臣切手でした。切手旅の「第4回秩父夜祭」「第6回新潟 弥彦」でも取り上げた、もはやお馴染みとなりつつある大臣切手、本当に多かったんですね。この時の郵政大臣は茨城県選出の郡祐一でした。
しかも単発ではなくシリーズ切手を急遽計画に盛り込むというのは異例のことで、最初の報道発表の時点では偕楽園以外は決まっておらず、翌1966(昭和41)年になってから、兼六園と後楽園の二種が後追いで決まりました。三名園シリーズではないので、ほかの名庭園の切手が続出しても良かったわけですが、結局3種で終わっています。
私は日本庭園が大好きなので、これはとても残念。京都の桂離宮、香川の栗林公園、熊本の水前寺公園など、シリーズ切手で見てみたかったと思わずにはいられません。目的の一枚を出した後も、帳尻合わせにならない切手が継続して発行されれば、もう少し評価が上がったかもしれません。
 

日本名園シリーズから「偕楽園」(1966年発行)

とはいえ、赤金、濃緑、茶黒のグラビア三色で印刷された偕楽園の切手は、水戸藩の気質を物語るような重厚さの中に、梅の花が軽やかに咲き誇る美しい仕上がり。郵趣家たちの評判も悪くなかったようで、郵便学者の内藤陽介氏の著書『切手バブルの時代』には、
「業者間の取引では額面割れとなる新切手が多かった中で、数少ないプレミアムつきの切手として取引されていたようです」
とあります。しかし「業者間の取引では額面割れとなる新切手が多かった」というのは、どういうことでしょうか? 調べてみると、この「偕楽園」切手が出された前年の1965年は、切手の取引値段が大暴落した年でした。
その契機は『郵趣』1965年7月号紙面で、切手で儲けることを目的とした「切手投資」への警告文の掲載でした。
 
警告 ≪切手投資≫は楽しい趣味を毒す
 
さいきん“切手でもうけよう”という気運が一部の人たちの間で、“ブーム”のような現象を起こしています。そのキャンペーンのため専門のタブロイド紙まで発行し、投機をあおっています。これは趣味の世界を害し、毒する行為です。(中略)
「もうけ」はいったい、だれが負担するのでしょうか。高くなった、高くされた切手が、その高い価値を維持するには、買い手がなくてはなりません。その最後の買い手は切手の愛好家であり、コツコツと小遣いをためて集める青少年たちです。(中略)
つぎに、いま行なわれている<切手投機>は、きわめて危険な自転車操業であり、あがっていると教えられている「紙上評価」は、砂上の楼閣です。いや楼閣もない“夢の蜃気楼”です。収集家の間で、とっくに集めることを止めているような、つまらぬ高い切手を、いかにも「値が上がった」ように見せかけている「紙上の評価」にすぎません。ひとたびそのカラクリと、実体がわかったら、ガラガラと音をたてて、暴落することは火をみるより明らかです。
切手収集が若い世代の魅力となるには、きれいな切手が手ごろに買えなくてはなりません。したがって最近のように、つまらない切手が高くなると、もう大多数の愛好家はそれを集めようとしません。切手商たちはその実態をよく知っていますから、最近のように、収集家の間で人気のない切手が、人為的に値段がつり上げられると、喜んでいます。そして在庫の一部を残して、あとは<投機家>に高く売ってしまい、暴落がくるのを楽しみに待っています。
「切手でもうける」ことを目的とした「投機」はこの機会に止めるべきです。もしやっていたら、一日も早くそのために買った切手を、手放して売ってしまうべきです。「投機」にたいする手ひどい反響は数ヵ月のうちにあることを予告しておきます。
 
 
多くの郵趣家が読む『郵趣』誌上にて、厳しい言葉で現状を憂い、警告を発したこの記事の反響は大きく、一般のマスコミも巻き込み、切手投機への批判が起こりました。その結果、1965年12月号の『郵趣』では、
 
日本切手の相場下落つづく
本誌の≪切手投機≫反対キャンペーンの後、切手業界には「もう値は上らない」という気分が漲り、資金ぐりに困った投機家たちが、上らない切手を投げ出しましたので相場はすっかり崩れました。例えば、切手経済社によってあおられた<新幹線>は、11月7日の如水会で、1シート310円でした。
宿木や、序の舞などの切手趣味週間切手は、額面から10%引かないと、買う人がいない有様です。
この調子はさらに深刻になることが予想され、12月も押しつまると、換金のために3~4年来の記念切手は、すべて額面か、額面割引きになるだろうと業界筋は伝えています。
 
切手商は安売り競争
切手の相場が下って、いつ止まるか予想もつかないこのごろ、切手商の間では、安売りの競争がはじまっています。少年向けの雑誌に出ている広告をご覧になると分りますが、この間まで1000円位で売られていた、花シリーズ12種に、500円とか、480円の値をつけています。
東京のデパートの切手売場の間でもこのような傾向がみられます。新宿駅ビルの1階趣味の切手売場をのぞいてみますと、この1年ぐらいに発行された10年の記念切手は、12円とか、13円で売っています。デパートの利益を見込むとトントンというところです。
 
 
こうした流れで値上がりを続けた「切手バブル」がはじけたんですね。
私も切手の世界に飛び込んで数年が過ぎ、昔の切手で欲しい切手がいくつか出てきました。漠然と「切手は高い」というイメージを持っていたのですが、お手頃価格で買えるなら集めてみようかなと思っています。こうした健全な切手収集ができる契機を作ってくれたことは、ありがたいことだと思います。
 

陰から陽へ、偕楽園の巡り方

 
では、偕楽園の散策へと参りましょう。
実は偕楽園を廻るには、斉昭の趣意を感じられるおすすめのルートがあります。それは表門から一の木戸を抜け、孟宗竹や大杉、熊笹の繁る鬱蒼とした「陰」の世界からはじまります。ザワザワと風に揺れる竹や、高く伸びる大杉が陽光を閉ざし、余計な物のない閑寂枯淡の趣が日常を切り離し、心をすぅーと沈めてくれます。
 
細い小路を進んでいくと、民家に囲まれるように建つ表門。
仰々しくないさらりとした風情が、斉昭の思いをよく表しています
 
途中、散策路を右に折れ崖を下ると、吐玉泉があります。常陸太田市の真弓山で産出する大理石「寒水石」に井筒を設け、高低差を利用して湧水を噴出させたもので、現在も1日100トンもの湧水が、真っ白な大理石を伝ってあふれており、陰の世界を代表する施設とされています。
 
鬱蒼とした森の中で、寒水石の白さが際立つ吐玉泉。この湧水は眼病に効果が
あるとされ、江戸時代には好文亭の茶室でも用いられていました
 
偕楽園ができる前からこの一帯は大杉が繁る森だったそうで、なかでも一番大きかったのが
吐玉泉の脇に立つ、推定樹齢800年の太郎杉。近寄りがたいようなパワーを感じました
 
崖を戻り、大杉の林を抜けて中門を出ると、斉昭こだわりの意匠が随所に散りばめられた好文亭に至ります。この好文亭3階の楽寿楼に上がると、ここではじめて視界が開け、梅林や園庭、千波湖が一望できます。これが「陽」の世界で、清々しく華やかな景観が広がります。このドラマティックな「陰」から「陽」を体感しなければ、偕楽園の趣意を満喫したとは言えないのです。
 
「偕楽園」切手にも描かれている好文亭。周囲の自然の彩りと調和しつつ、存在感を放っています
 
などと偉そうなことを書いていますが、実は私もこの廻り方を偕楽園ホームページで知るまでは、観梅が目的だったこともあり、いつも梅林に近い東門から入園していました。偕楽園の印象といえば、梅が咲く広々とした庭園というイメージで、奥深さのようなものは(失礼ながら)感じたことがありませんでした。
それが、この陰と陽のルートで巡ってみたら、ガラリと印象が変わりました。侘び寂びの世界から洒脱な好文亭を経て、爛漫たる庭園へ…。ぜひ皆さんも、このルートで巡ってみてほしいと思います。
 
好文亭3階「楽寿楼」からの眺望。すぐ足元の庭木から、園庭、そして千波湖や月池、さらには遠く筑波山まで望めます
 
好文亭は斉昭の別邸であり、太鼓橋廊下でつながる奥御殿とあわせて「好文亭」と呼ばれています。2層3階の好文亭には、武者控室などの不意の敵襲を想定した空間や、文人墨客や家臣、領内の人々を集めた供宴用の広間や設備がたくさん。さながら、仕事から趣味までマルチに使える、凝りに凝った別荘という印象です。眺望も含め「皆で楽しみたい」という思いが随所から伝わってきて、各部屋を廻りながらワクワクしてしまいます。
 
1階調理室から3階へと、お膳や酒肴を階上に運ぶ滑車式昇降機。左側の白い箱が上下します。
日本初の手動エレベーターといわれており、斉昭の創意工夫が伺えます
 
1階の西塗縁広間は詩歌の宴が催された場所で、杉戸は辞書代わりになるよう四声別韻字が
書かれています。この戸で確かめながら、皆さん漢詩を作っていたのでしょうか?
 
奥御殿桜の間の襖絵。奥御殿は藩主夫人の休養の場として設けられましたが、
好文亭と共に戦災で焼失し、昭和33(1958)年から10年かけて復元されました。
部屋ごとに季節の花が描かれ、偕楽園の四季の美しさを教えてくれます
 
好文亭を出たら、芝前門から四季の花咲く庭園へ。梅、桜、藤、つつじ、萩、紅葉、そして雪景色と、季節を問わず美しい景色を楽しむことができます。また、庭園からJR常磐線を隔てた南側は公園拡張部として整備されており、千波湖をはじめ田鶴鳴梅林や芝生広場の四季の原、桜川や月池、そしてそれらを結ぶ遊歩道がめぐらされ、ゆっくりと散策することができます。
 
水鳥が羽を休める姿が見られる月池。ここからも好文亭を遠望でき、いかにその立地が計算されたものかが伺えます
 
父:徳川斉昭と、子:徳川15代将軍慶喜の銅像。2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」
にも登場するので、楽しみにしています
 
こうした偕楽園の見どころと春夏秋冬の美を切り取ったふるさと切手も発行されています。
春は紅白梅に包まれる好文亭、夏は杉木立の緑に囲まれた中門、秋は紅葉舞い散る吐玉泉、冬は千波湖から望む雪景色の好文亭が描かれ、次はどの季節に行こうかと楽しみを膨らませてくれます。
 

2001(平成13)年発行のふるさと切手「偕楽園」

 

水戸といえば!の名物をお土産に

 
ゆっくりと偕楽園を廻り、ランチを挟んで拡張部を散歩すると、日帰り旅ならそろそろ帰宅の時間。最後に、水戸ならではのお土産をふたつご紹介します。
 
まずは、水戸といったら「わらつと納豆」! 茨城県は納豆生産量日本一で、スーパーにもたくさんの納豆が並んでいます。私も水戸を訪ねたら、毎回欠かさず納豆をお土産にしています。パックの納豆しか見たことのない方には驚きかもしれませんが、「わらつと納豆」は稲藁に元々付着している納豆菌が煮大豆を発酵させてできるため、じかに包まれています。初めて見たときは、「納豆に藁が混ざっちゃう!」とびっくりしたものです。
 
「わらつと納豆」。その起源は弥生時代とも奈良時代ともいわれており、古くから伝わる古代食なんですね
 
その味わいは、柔らかく食べやすいパック納豆に比べると、野趣あふれる大豆の風味としっかりした食感が特徴で、古来の自然発酵力を思い起こさせてくれます。市内の料理店では納豆を使った様々な納豆料理を味わうことができます。自由に旅ができるようになったら、ぜひ納豆フルコースを食べてみたいと思っています。
 
そしてもうひとつは、いまや日本食として世界中で愛されているラーメンです。実は、ラーメンを日本で最初に食べたのは水戸光圀だといわれています(※1)。
 

2009(平成21)年発行の地方自治法施行60周年シリーズ
「茨城」より「徳川光圀」

 
寛文5(1665)年、光圀は長崎から明国の儒学者・朱瞬水(しゅしゅんすい)を水戸に招聘し、儒学の教えを請いました。朱瞬水は光圀の高い志に感心して様々なことを教えたとされ、その中には中華麺の製法まで含まれており、たびたび長崎から中国伝来の食材を取り寄せては献上していたといいます。そして元禄10(1697)年6月16日の日乗上人日記には、光圀が朱瞬水から教わった麺を作り、家臣にふるまったことが記録されています。それは醤油味のスープに「グーフン(蓮根の澱粉)」を練り込んだ麺で、五香(ショウガ・ニンニク・ニラ・ネギ・ラッキョウ)と共に食すことが勧められていました。
このラーメンが「水戸藩ラーメン」として、地元の中華店の協力で現代に復活し、ご当地ラーメン・お土産ラーメンとして味わうことができるんです。さっそくお取り寄せして私もいただいてみました。
 
五香を添えた「水戸藩ラーメン」。ラーメン好きの人の中には、麺やスープから自分で作る人がいますが、
黄門様もそのタイプ⁉ 五香は万能薬味なので、いろいろなラーメンに合わせてみたいと思います
 
まずはそのまま、スープと麺を賞味。醤油味のスープはあっさり系、そして蓮根の澱粉が練り込まれた麺はもっちりしていて、歯ごたえ良好。次に、黄門様おすすめの五香をプラスしてみると、ぐんと薬膳の雰囲気が出てきて、滋養強壮に良さそうなパンチが加わり、格段に味わい深くなりました。私は特に、ニラとラッキョウが気に入りました。美味しいうえに五臓にも良いなんて、医学に詳しかった黄門様ならでは! 次はぜひお店で味わってみたいです。
 
納豆や水戸藩ラーメンだけでなく、医食同源に基づき地産地消を心掛けていた黄門様の食事を復元した「黄門料理」というのもあるそう。水戸は歴史豊かな食がたくさんあるんですね。そもそも茨城は、常陸牛や奥久慈しゃも、あんこう、メロンなど美食の宝庫で、実は日帰りではもったいないエリア! 1泊して名物を味わい、偕楽園周辺の藩校「弘道館」や徳川ミュージアム、茨城県立歴史館、茨城県近代美術館、水戸芸術館などの文化施設、さらに大洗海岸やひたち海浜公園などに足を延ばすのもおすすめです。
 
※1 諸説あり、近年では水戸光圀が最初ではないとされているようです。しかし、「黄門様が食べたラーメン」という史実は変わりませんし、水戸の人たちの誇りであることは間違いないそうです。
 

梅の形がキュートな水戸の風景印

 

偕楽園好文亭とウメが描かれた、水戸中央郵便局の風景印

 
今回は水戸中央郵便局から、風景印(※1)を郵頼(※2)でいただきました。
見てください! かわいい梅の形をしていて、特にこの季節の便りにぴったりです。こうした丸型ではない風景印を、変型風景印と呼びます。花や果物、星、ハート、生き物の一部など、その土地の名物・名産等の形を模しています。ユニークな形の風景印ばかりを集める、という楽しみもありそうですね。
 
******
 
コロナ禍となり、2度目のお花見の季節がやってきます。これまでのようなお花見はできませんが、季節が来れば蕾を開く花々を見ていると、「粛々と、今自分がやるべきことをやることこそ大切」と励まされる気がします。来年こそは皆でお花見ができますように。
次回もお楽しみに。
 
※1 風景印とは消印の一種で、風景入り通信日付印の略称。大きさは直径36ミリ。郵便局のある地域の名所旧跡や特産品、ランドマークなどが描かれています。手紙やはがきを出すときに、郵便局員さんに「風景印でお願いします」といえば、風景印を押して配達してくれます。また、はがき料金(2020年現在は63円)以上の切手を貼ったはがきや封書、台紙を用意して「風景印の記念押印」をお願いすれば、風景印を押して手元に返してもらえます。これを再び投函・郵送することはできませんが、記念品として手元に残すことができるので、風景印を集めることを趣味としている郵趣家もたくさんいます。
※2 「郵頼」とは、文字通り郵便を使って風景印を頼む方法。どこに風景印を押印してほしいのかを記載した指示書とともに、63円以上の切手を貼った台紙(封筒でも官製はがきでもポストカードでも可)と返信用の封筒(宛先と84円切手を貼付)を添えて郵送します。指示書は端的に、明確な文章を心掛けましょう。「〇〇郵便局 風景印押印 ご担当者様」宛で、どこに、どう風景印を押印してほしいのかを図示し、日付の指定があれば明記します。どうして貴局の風景印が欲しいのか、などの細かな理由を長々と記載する必要はありません。「郵頼」の対応は、郵便局員さんが業務の合間に善意でやってくれることなので、わかりやすい指示書が好まれます。
 
【参考文献】
・『郵趣』1965年7月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1965年8月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1965年9月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1965年10月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1965年12月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1966年2月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1966年3月号 日本郵趣協会発行
・『切手バブルの時代 五輪・新幹線切手に踊らされた頃 1961-1966』(解説・戦後記念切手Ⅲ) 内藤陽介 日本郵趣出版発行 2005年4月
・『もの知り切手用語集』改訂版第9刷 日本郵趣協会発行 2019年1月
・「偕楽園ガイドマップ」
・「梅の香漂う歴史の景勝地 偕楽園 史跡・名勝「常盤公園」」パンフレット
・「好文亭」解説パンフレット
・「水戸市観光案内」
・「黄門さまとラーメン」水戸藩らーめんパンフレット(有限会社川﨑製麺所)
 
【参考ホームページ】
日本郵便株式会社 https://www.post.japanpost.jp/index.html
水戸市ホームページ https://www.city.mito.lg.jp/
一般社団法人 水戸観光コンベンション協会  https://www.mitokoumon.com/
日本三名園偕楽園 https://ibaraki-kairakuen.jp/
一般社団法人茨城県観光物産協会「観光いばらき」 https://www.ibarakiguide.jp/kairakuen.html
一般社団法人プレスマンユニオン「ニッポン旅マガジン」 https://tabi-mag.jp/3-great-gardens/


【写真協力】
・観光いばらき
・岡山後楽園公式サイト「特別史跡名勝 岡山後楽園」
・公益社団法人石川県観光連盟「ほっと石川旅ねっと」

PAGETOP
Copyright © 切手の博物館 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.