切手と遊ぶ発見ミュージアム

切手旅第11回「甲府 昇仙峡」

切手旅の第11回の舞台は、山梨県甲府市にある昇仙峡(しょうせんきょう)です。
ご紹介する切手は、1951(昭和26)年発行の「観光地百選」シリーズから「昇仙峡(渓谷)」です。

「昇仙峡」8円切手「覚円峰」1951年発行

昇仙峡ってどんなところ?


昇仙峡は甲府市北部に位置し、奥秩父連峰の主峰・金峰山(きんぷさん)に端を発する荒川によって作られた峡谷です。一帯は秩父多摩甲斐国立公園に指定されていますが、甲府駅から車で約20分と交通の便が良く、特急を使えば首都圏からも日帰りで訪ねることができます。

自然の力を体感できる峡谷散策はとてもドラマチック。さまざまな奇岩との出会いがあります

約4キロの峡谷は、川の流れの浸食により形成された断崖絶壁の自然の妙が見事。河畔には大砲岩やオットセイ岩、ねこ石、松茸石、寒山拾得岩などの名前が付けられた奇岩が連なり、四季を通して多くの人が散策を楽しむ景勝地として知られています。
渓流沿いに遊歩道がつけられ、起点の長潭橋(ながとろばし)から最奥の仙娥滝(せんがたき)まで2~3時間で歩ききることができます。なだらかな道なので川の表情が良く見える下流から上流に向けて歩くのがオススメです。

「昇仙峡」24円切手「長潭橋」1951年発行。
散策の起点となる、天神森に架かる長潭橋は今も健在。1925年竣工の県内最古のコンクリートアーチ橋です

8円切手に描かれた覚円峰(かくえんぽう)は、昇仙峡を代表する見どころ。そそり立つ巨大な花崗岩は約180mもあり、圧倒的な迫力です。岩の頂上には数畳ほどの平らなスペースがあり、ここで鎌倉時代の禅僧・覚円が修行したという伝承に由来しています。
どの季節に訪ねても清冽な流れに心が洗われますが、特に人気なのは紅葉の季節。10月末から11月末頃にはモミジやナナカマドが渓流を彩り、白い花崗岩の岩肌によく映え、絶景が広がります。

覚円峰を真正面から望める「夢の松島」。私が訪れた時はまだ紅葉の見頃前で、
気の早い木が色づいている程度でしたが、充分に風雅を味わえました

国の特別名勝にも指定される景観の美しさは、今回のテーマである「観光地百選」の渓谷部門第1位や「平成百景(※1)」第2位を獲得し、水質の良さでは、「平成の名水百選(※2)」にも選定されています。
しかし、昇仙峡の魅力は峡谷美だけではないようです。昇仙峡の歴史について、切手発行当時の月刊誌『ゆうびん』に記事がありました。

「明治以前は昇仙峡という言葉はなく、御嶽(ミタケ)と言われていたそうです。御嶽に金桜神社が鎮座せられていたからです。社記によると『平安期の末期に、甲斐源氏の一族武田太郎信義によって、社殿が建てられ、金峯山上の蔵王権現の里宮として勧請された』とあるのです。大和の金峯山は修験道の根本道場ですから、恐らくこれに由来して甲斐の金峯山の山頂に蔵王権現が勧請せられたのでしょう。」

切手旅第9回「奈良 吉野」でご紹介した金峯山寺にあやかって、荒川の水源である金峰山の山頂に蔵王権現を勧請し、その遥拝所として昇仙峡から4キロほど入ったところにある里山に社殿(=金桜神社)を建立したのは(なんと!)平安末期とのこと。時代をさかのぼると、美しい峡谷であるということだけで人気だったのではなく、やはり篤き信仰に由来していました。古代から近世まで人が集まり往来するのは、信仰に係わることがほとんどであり、昔の人が重んじていたものが何なのかを伺うことができます。昇仙峡ではなく御嶽と呼ばれていたんですね。

「昔は、この道(筆者注:渓流沿いの新道)はなく御嶽参詣の人々は覚円峰の山上を縫う旧道(外道又は下道ともいう)を通行していたのです。今日でもその道が残っていて、その通路には桜大門、杉大門などの跡がのこされています。当時は金桜神社の参詣者と金や水晶の採掘で賑い、御嶽千軒と言われ、この道を往来するものは多かったのです。その頃から、いまの昇仙峡(新道)の山水の美はすぐれていたのです。これを世に出すため、文化年間、宮本村猪狩組の長田円右衛門という人が、私財を投じて、荒川の渓流に沿い吉沢村から宮本村まで約二里の間を、樹木を切り、岩山を割り、或は橋を架け新道を作ったのです。これが完成したのが、天保十四年ということですから、その間、実に三十有余年の長日月を要したわけです。これによって昇仙峡は一躍天下の名勝として世に出たのです。この昇仙峡開発の大恩人長田円右衛門翁の碑は、いまも覚円峰と向い合って建立されていますが、星うつり月かわるにつれ、往時をしのぶ探勝客の少ないのは遺憾なことです。」

ちょっと長い引用ですが、長田円右衛門の尽力により新道が開通し、地元民はもとより観光客も含め人馬の往来が可能となったことにより、江戸時代末期から観光名所として名を馳せることになったというわけです。こうした由来を知ると、より想いを深くして散策を楽しむことができますよね。

渓流沿いの道の敷設に尽力した長田円右衛門の碑。
新道開通により、昇仙峡の人々の生活は飛躍的に向上しました

ところで、この『ゆうびん』の記事を書いていたのは、この当時の山梨県観光連盟常務理事である飯野正太郎氏。切手が発行された土地の観光の第一人者が筆を執り、歴史や由来、見どころを紹介してくれるというのは、とても贅沢ですよね。昔の切手雑誌を読んでいると、様々な分野の人が寄稿していて、切手が趣味の王道だったことが伺えます。

※1 読売新聞が2009年に創刊135周年を記念して、新たな平成時代の景観を選出した企画。300の候補地から、投票で上位100位までが選ばれました。上位は、第1位富士山、第2位昇仙峡、第3位知床でした。
※2 環境省が2008年に、全国各地の湧水、河川、用水、地下水の中から、水質や水量、周辺環境の状況などを基準に、1985年に行った「名水百選(昭和の名水百選)」に加える形で、新たに100ヵ所を選出しています。

「観光地百選」シリーズとは?


さて、続いて切手発行にまつわるエピソードをご紹介します。今年は「観光地百選」切手の発行から70年の節目の年。全国で郷土の観光地を1位に!と大いに盛り上がった様子をみてみましょう。

戦後まもないこの頃、切手を観光宣伝として活用することで郵便事業の増収を目論む逓信省(※1)や、切手が発行されることで地元の観光地を全国区にして観光収益を上げたい自治体などの思惑が交差して、切手の発行に関して紆余曲折が繰り広げられていました。
そんな中1950年7月、毎日新聞社と日本観光地選定会議主催の「新日本観光祭」が開催され、一般投票により「日本観光地百選」の選出が行われることが報じられたのです。

「日本観光地百選の企画が発表されると、郵政省は、各部門の第一位のもの一〇種を名勝地切手として発行することを内定します。当初、郵政省の内部には、一新聞社が募集した結果をそのまま切手の題材として取り上げることに対しては、強硬な反対意見がありました。しかし、結局、反対意見は斥けられ、九月中旬には「観光地切手」(当初、郵政省の仮称はこうなっていた)の発行が決定されています。省内の反対意見を押し切って観光地百選切手の発行が実現されたのは、各観光地が組織的に大量の葉書を差し出したことが、結果として、郵便事業の増収に貢献したからです。」

7月末から投票が始まり、当初はあまり応募が集まらなかったそうですが、9月1日の中間発表で順位が明らかになると、有力観光地間の争いが激化し、なかには大規模な組織票を動員するところも出てくる始末。毎日新聞の紙面には「百選へ、この一票でのし上げろ」「あと2日、負けてなるかわが郷土」「首位に観光切手 欧米人の遊そそる」などの見出しが躍り、郷土の意地と誇りを刺激し、インバウンド誘致をちらつかせて投票をあおりました。

郵便日付印に民間企業や商品の広告が入った「広告入機械日付印」でも投票勧誘が行われました。
全国共通の「観光地百選は郷土の誇り」のほかに、個別の観光地でも使用され、力の入れようが伺えます

投票合戦は9月15日までの当初の応募締切を半月延ばして9月末日に幕を閉じ、応募総数は7,750万854通にのぼりました。それぞれの部門の1位は以下の通り。
<海岸>和歌浦友ヶ島
<山岳>蔵王山
<湖沼>菅沼丸沼
<瀑布>赤目四十八滝
<温泉>箱根
<渓谷>昇仙峡
<河川>宇治川
<平原>日本平
<建造物>錦帯橋
<都邑>長崎 
この結果について、『京都寸葉』では次のように書いています。

「観光切手発行箇所を決する意味で、郵趣会でも視聴をひいていた新日本観光地百選は前号所報の通り決定発表されたが、締切までの投票総数七千七百五十万とは実に想像もつかない膨大な数であった。郵政省当局では最初の目標を五千万と見ていたが、予想は五割余も上廻り増収にホクホクものというところだ。2円の葉書がとにかく七千七百五十万枚売れたんだから、一億五千五百万円がこれで挙ったわけだ。年賀郵便が全国で約一億だというから、一事業でこれだけの成果をあげたのはまさに年賀郵便に次ぐべきものであり、当局としては大成功だったといえよう。(中略)
都邑の部では最初のうち奈良がずっと首位を保持していた。それがゴールに近づくに従い日に日に下位に蹴落とされて、結果十四位となって百選からは外された。小中学校、高等学校に通っている筆者の子供たちは学校から五枚づつとか葉書を持参するように云われ、奈良を支持投票したらしいが、微力遂に及ばず、他に勝を譲ってしまった結果となった。又洛中洛外といわず名所旧跡に満つ京都なども二十位の下位でションボリしている。
今更馬鹿らしくて新興観光地などと競争出来るかーという先入主が誰しも両府県民の頭にあったからだろうと思う。事実百選に洩れても京都や奈良の観光地的意義が減殺されるものではなく、観光団や修学旅行団が減るわけでもない。とにかく新興観光地には絶好の宣伝機会であったことは事実で、中には名実伴わずという所も若干含まれているかも判らない。ただ入選を契機に観光設備が改善充実されればまことに結構なことである。」

負け惜しみのようなコメントと共に、子供を巻き込み学校ぐるみで組織票を送っていたことが堂々と書かれています。結果はどうであれ、日本中の観光地が湧き立ち、戦後復興の一助として観光が力を発揮する時代の幕開けとなったイベントと言えるでしょう。

「昇仙峡」8円切手「覚円峰」1951年発行

「昇仙峡」24円切手「長潭橋」1951年発行

今回の舞台である昇仙峡は118万3,654票を獲得し、8円と24円の2種が1951年10月15日に発行されました。8円は朱、24円はこい緑青のグラビア印刷で、それぞれ450万枚と100万枚が作られました。
カラー印刷を見慣れた目には、昔の1色刷りの風景切手はどうも物淋しく見えてしまうことが多いのですが、紅葉の名所でもある昇仙峡を朱色で表現した8円切手はなかなかに美しく、『郵趣』1951年12月号では、

「この切手の原図は8円が岡田紅陽氏、24円が地元の島吾郎氏の撮影になるもので、加曾利鼎造氏が文字を、吉田豊氏がレイアウトを行い、印刷庁で例のごとく修正の上印刷が行われた。この切手は8、24円ともなかなか良いできで、24円の刷色の暗さが難点のほかは、8円など紙質の白さにその明るい刷色が、細かな陰影まではっきりさせ、良い調子をだしている」

と評価されています。私も、川面から岩肌、空の雲に至るまで、昇仙峡の清逸な景観が表現されていて綺麗だなと思いますし、その上、いま訪ねても変わらぬ風景に出会えることのすばらしさにも感激しました。保全に力を注ぐ人たちがいるからこそ、古い切手でも、その舞台へと旅をすることが出来るんですね。
前職は旅行関係の仕事をしていた私にとって、「観光地百選」は切手の世界に飛び込んだ時から気になる切手でした。ランキングを見ると、当時の旅の趣向や時代の流れを感じることができますし、それぞれの由緒や特色を知り切手を改めて眺めると、どこも魅力的で今すぐにも旅に出たくなります。

※1 逓信省は1949年に郵政省と電気通信省に分割されています。

奇岩を探して渓流ウォーキング! 甲府の味覚も忘れずに堪能して


では、昇仙峡の散策を始めましょう。

起点の昇仙峡口(もしくは天神森)バス停までは、甲府駅から30分ほど。季節の色彩に包まれる長潭橋をチェックしてから、スタートです。

長潭橋も切手と同じ風景がそのまま残っています

前述したとおり、昇仙峡には奇岩がいっぱい。起伏も緩やかですし、おもしろい形の岩を探しながらだと、普段あまり歩きに自信のない方でも不思議と歩が進みます。アフターコロナのウォーミングアップを兼ねた旅先にちょうどいいかもしれませんね。名前の付けられた岩には道標があるので、それらしき形の岩を探します。全部もれなく見たい!という方は、あらかじめ昇仙峡観光協会のホームページで岩の形を確認しておきましょう。

オットセイ岩。オットセイの後ろ姿によく似ています

奥の方にある、頂部が白いのが富士石。雪をかぶった富士山のようです

川岸に横たわる大きな松茸石。ここから先にははまぐり石、ふぐ石が続き、食欲を刺激します

しばらく岩探しをがんばっていた私ですが、途中から「あの岩、イヌみたい」「そこの岩はオニギリに似てる」と勝手に動物や食べ物になぞらえながら歩いていました。だって、本当にいろんな形の岩がいっぱい! 岩肌もごつごつと変化に富んでいて、自然の造形美にすっかり魅せられてしまいました。川面に目を凝らせばイワナやヤマメの魚影が見え、水のきれいさが伺えます。

見事な紅葉風景の天鼓林(てんこりん)。足を強く踏み鳴らすと、
場所によって地中にある岩盤に音が反響し「ポンポン」と鼓のような音が
返ってきます。山梨県の天然記念物にも指定されています

切手とほぼ同構図の覚円峰。今も変わらぬ景色を眺めることができます

パンフレットなどで見かけるのは、このように覚円峰を中央から左手に見る構図が多いのですが、
どうして切手は右手タテ構図なのか、ご存じの方がいらっしゃったらお教えください

石門は石のアーチのように見えますが、実は2つの石でできています。上の岩はどうやったらこんな形になるのでしょうか

くっつきそうでくっつかない、ほんのちょっとの隙間をお見逃しなく

昇仙峡の最奥にある仙娥滝は、地殻変動の断層にできた花崗岩の岩肌を流れる滝で、落差は約30m。日本の滝百選にも選ばれています。中国神話に登場する月の世界に住むといわれる仙女の名にちなんだとされ、月光のような優しさと軽やかさを感じさせる名瀑です。
この幽玄の世界から約180段の階段を上ると散策は終了、うつつの世界へと戻ります。

マイナスイオンに包まれる仙娥滝。緑にも紅にも雪の白にもよく合う滝です

滝の上は、土産物店や飲食店、美術館、昇仙峡ロープウェイ乗り場などが連なる、観光地らしい賑わいの通りになっています。水晶街道とよばれており、昇仙峡が自然景観以外にもうひとつ誇る名物である、水晶を扱うお店も並んでいます。昇仙峡の歴史について前述した際にも触れましたが、金峰山から昇仙峡一帯は、江戸時代から良質な水晶が採掘され、その優れた研磨・加工技術は、甲府を日本一のジュエリーの街として支えています。近年では電子機器向けの人工水晶製造技術も開発され、過去から未来へと匠の技が伝承されています。昨年2020年には「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~」として日本遺産(※1)にも登録され、注目が集まっています。散策時間だけでなく、自分へのお土産にジュエリーを見る時間も取っておきたいところですね。

さて、昇仙峡から甲府の街に戻ったら、甲斐の味覚も楽しんで帰りましょう。
甲府といえば武田信玄! 街のあちこちに信玄公の姿や「風林火山」の旗を見ることができます。山梨名物のほうとうも元々は武田軍の陣中食で、栄養バランスが良く体が温まるため、信玄公も好んで食べたといいます。
甲州牛や甲州地どりのほか、実は馬肉も美味しいってご存じでしたか? 古代より「甲斐の黒駒」といえば貴族の憧れというほど優れた馬の産地であったこと、さらに富士信仰のために登山する人々の荷揚げ用に馬がたくさん飼われていたことなど、馬が生活に身近で肉が安く手に入ったことに起因しているそう。

馬が身近にあると必然的に食にも反映されてしまうという、
ちょっと気の毒な名物ですが、新鮮でおいしい馬肉が味わえます

また、近年人気のご当地グルメ・鳥もつ煮も気になりますし、歴史好きの私としては、江戸時代から伝わるあわびの煮貝も食べておきたいところ。あわびを醤油で煮浸しにした、海なし県の山梨ならではの保存食でありハレの食。今でも結婚式などに食べるご馳走です。

海が無いからこその名物料理「あわびの煮貝」。昔に思いを馳せながら有難くいただきました

ああ、どれも美味しそう! 胃袋はひとつなのに名物が目白押しです。それに「和」も良いけれど「洋」も気になるところ。そう!山梨といえばワインです。
県内には80ものワイナリーがあり、日本のワイン発祥の地と言われる甲府市には4つのワイナリーがあります。レストランを併設しているワイナリーもありますし、上にご紹介したような「和」の食事を出すお店でも、多くのところで県産ワインを味わうことが出来ます。かしこまらずに自分好みのマリアージュを探してみるのも楽しそうです。

ワイナリー併設のレストランでワインをいただくひとときもまた、旅を思い出
深いものにしてくれます(サドヤ・ワイナリーにて)。お土産のワイン選びにも熱が入ります

きれいな景色の中を歩いて爽快なひとときを満喫し、その土地ならではの味覚とお酒を堪能する…まさに今、多くの人が求めているリフレッシュが山梨・甲府にはあります―。なんて、観光宣伝文句のようになってしまいましたが、観光地百選の切手をご紹介した今回ならではということでお許しください。

※1 文化庁が2015年から行っている事業で、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として認定し, ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の様々な文化財群を総合的に活用する取組を支援しています。地域に点在する遺産を「面」として活用し, 発信することで, 地域活性化を図ることが目的です。

風景印のお土産も忘れずに!

右に覚円峰、左に仙娥滝の二分割デザインの昇仙峡郵便局の風景印

今回は仙娥滝のすぐそばの水晶街道沿いにある、昇仙峡郵便局から郵頼で風景印をいただきました。昇仙峡の二大見どころでありつつも場所が離れている覚円峰と仙娥滝を、中央で印面を分割して入れ込んであります。なるほどこんな手もあったかと思う、ちょっと斬新な構図です。立地的にも、散策の最後にお土産として記念押印してもらいやすいので、これはぜひ挑戦してみてはいかがでしょうか。
なお、昇仙峡郵便局は1976年に御嶽郵便局から局名変更しています。明治以前は昇仙峡という名称でなかったことは紹介しましたが、45年前まで“御嶽”の名称が残っていたんですね。私は風景印を探すときは、日本郵趣出版発行の『風景印大百科』を使っていますが、これには廃止された過去の風景印も採録されています。御嶽郵便局は、

 1932年(戦前使用)昇仙峡覚円峰に昇仙橋と金桜神社《変》岩の一部
 1951年(新規使用)昇仙峡の覚円峰、長潭橋
 1976年(局名変更)昇仙峡の覚円峰、長潭橋

と3種の移り変わりが載っています。戦前の図案には、昇仙峡の発展の元である金桜神社が描かれていますが、次第に信仰より観光の流れにのって、図案が変わっているようにも受け取れます。人々の関心の対象がどう変化していくかを、風景印で知ることもできるんですね。

*****

昇仙峡の切手旅はいかがでしたか? 個人的には切手に描かれた景色を実際に見た時、今回のように一色刷りの世界がフルカラーに置き換わる瞬間がとても好きです。そうしてしばらくフルカラーを楽しんだのち、一色に視線を戻したときに“つまらない”と感じない切手ってすごいなぁと思うのです。原画の表現力に敬服しながら、これからも切手の舞台を旅したいと思います。
次回もお楽しみに。

※1 風景印とは消印の一種で、風景入り通信日付印の略称。大きさは直径36ミリ。郵便局のある地域の名所旧跡や特産品、ランドマークなどが描かれています。手紙やはがきを出すときに、郵便局員さんに「風景印でお願いします」といえば、風景印を押して配達してくれます。また、はがき料金(2020年現在は63円)以上の切手を貼ったはがきや封書、台紙を用意して「風景印の記念押印」をお願いすれば、風景印を押して手元に返してもらえます。これを再び投函・郵送することはできませんが、記念品として手元に残すことができるので、風景印を集めることを趣味としている郵趣家もたくさんいます。
※2 「郵頼」とは、文字通り郵便を使って風景印を頼む方法。どこに風景印を押印してほしいのかを記載した指示書とともに、63円以上の切手を貼った台紙(封筒でも官製はがきでもポストカードでも可)と返信用の封筒(宛先と84円切手を貼付)を添えて郵送します。指示書は端的に、明確な文章を心掛けましょう。「〇〇郵便局 風景印押印 ご担当者様」宛で、どこに、どう風景印を押印してほしいのかを図示し、日付の指定があれば明記します。どうして貴局の風景印が欲しいのか、などの細かな理由を長々と記載する必要はありません。「郵頼」の対応は、郵便局員さんが業務の合間に善意でやってくれることなので、わかりやすい指示書が好まれます。

【参考文献】
・『京都寸葉』第224号 京都寸葉会 1950年9月21日発行 
・『京都寸葉』第227号 京都寸葉会 1950年10月21日発行 
・『京都寸葉』第228号 京都寸葉会 1950年11月21日発行 
・『月刊ゆうびん』11月号(第2巻第11号) 逓信協会郵便文化部 1951年11月1日発行
・『郵趣』1951年12月号 日本郵趣協会発行
・「観光地百選切手(その1、発行のいきさつ)」神宝浩『Port Phila』No.129 JPS横浜港北支部 2001年2月発行
・「観光地百選切手(その10)」神宝浩『Port Phila』No.138  JPS横浜港北支部 2001年11月発行
・『濫造・濫発の時代 1946-1952』(解説・戦後記念切手) 内藤陽介 日本郵趣出版発行 2001年12月
・『広告スタンプ集 1950-52』日本郵趣出版発行 1979年8月
・『風景印大百科 1931-2017 西日本編』日本郵趣出版発行 2017年5月
・『もの知り切手用語集』改訂版第9刷 日本郵趣協会発行 2019年1月
・『スタンプマガジン』2021年6月号 日本郵趣出版発行
・「昇仙峡地図」昇仙峡観光協会

【参考ホームページ】
昇仙峡観光協会 https://www.shosenkyo-kankoukyokai.com/
甲府市観光協会 https://kofu-tourism.com/
公益社団法人やまなし観光推進機構 https://www.yamanashi-kankou.jp/
金櫻神社 https://kanazakura-shrin.webnode.jp/
登山情報サイトYAMAKEI ONLINE https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=351
日本百選 都道府県別データベース http://j100s.com/heiseihyakkei.html
環境省ー名水百選ポータル https://www.env.go.jp/water/meisui/
日本遺産ポータルサイト http://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/index.html
【写真提供】
昇仙峡観光協会

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