切手と遊ぶ発見ミュージアム

切手旅第21回「碓氷峠の鉄道遺産」

切手旅第21回の舞台は群馬県の安中市にある、横川駅から碓氷峠です。
ご紹介する切手は、1990(平成2)年発行の「電気機関車シリーズ」第1集「10000形」です。
 

「電気機関車シリーズ」第1集「10000形」(1990年発行)

安中市ってどんなところ? 

 
群馬県西部に位置する安中市は、高崎市と富岡市、下仁田町、長野県軽井沢町に隣接した、人口約5万人のまち。2006年に松井田町と合併して、新・安中市となりました。市域を東西に中山道が通っており、板鼻・安中(旧安中市)、松井田・坂本(旧松井田町)の4つの宿場町を有します。
江戸時代には安中藩の城下町として栄え、その様子がうかがえる人気のイベントが、毎年5月に開かれています。その名も「安政遠足(あんせいとおあし)侍マラソン」です。
 
侍姿の仮装ランナーが中山道を走るユーモアあふれるイベントです(写真提供:ググっとぐんま写真館)
 
日本のマラソンの発祥と言われる「安政遠足」の由来は、1855(安政2)年、安中藩主の板倉勝明候が藩士の心身鍛錬を目的として、安中城内から碓氷峠の頂上にある熊野権現まで中山道を7里余り(約29キロ)徒競走させて、その着順を記録させたことによります。1955(昭和30)年に碓氷峠の茶屋から、藩士96名の氏名や着時刻、着順などを記した古文書が発見され、「日本最古のマラソン」として知られることになりました。こうした鍛錬のたまものか、約20キロも離れた榛名神社まで1日2往復する藩士もいたと伝えられており、安中藩士は文武両道だったようですね。
 
安中郵便局と磯部郵便局の風景印には、安政遠足の様子が描かれています
 
安中市街では、旧安中藩武家長屋、旧安中藩郡奉行役宅、旧碓氷郡役所や、皇女和宮がご降嫁の際に宿泊した板鼻宿本陣跡などを見ることができます。また、安中藩士の長男として生まれ、アメリカでキリスト教を学び、のちに同志社大学を開いた新島襄の旧宅も保存・公開されています。

第1次文化人切手「新島襄」1950年発行

ところで、上の風景印を記念押印してもらった磯部郵便局は、温泉記号発祥の地として知られる磯部温泉にあります。1661(万治4)年の絵図に、磯部温泉を示す記号として描かれたもので、風景印にも描かれたこのクラゲのような記号が、日本における温泉記号最古のものと認定されています。温泉街を流れる碓氷川では、6月中旬から9月末には磯部簗で鮎料理が楽しめますし、近隣には安中地域の古代の有力者が眠る簗瀬二子塚古墳(国指定史跡)もあります。

美味しい鮎を頬張りたい!(写真提供:ググっとぐんま写真館)
 
古代の有力者が眠る簗瀬二子塚古墳
 
そんな歴史観光資源の多い安中市ですが、やはり抜群の知名度を誇るのは、碓氷峠の鉄道遺産ではないでしょうか。安中市松井田町横川と長野県北佐久郡軽井沢町の間にそびえる碓氷峠の急勾配を、線路中央に敷かれたラックレールと車両のピニオンギアを歯車式にかみ合わせて昇降するアプト式鉄道を敷設することで克服、1893(明治26)年の横川―軽井沢間(通称・碓氷線)開通をもって太平洋側と日本海側を鉄道で結ぶという悲願を達成し、日本の産業発展に貢献しました。1997(平成9)年、多くの鉄道ファンに惜しまれつつ碓氷線は廃止されましたが、アプト式鉄道の廃線跡は「遊歩道 アプトの道」として整備され、往時をしのばせる鉄道遺構を訪ねる人々で賑わっています。
 
トンネルの向こうにまたトンネルが!冒険感も味わえるアプトの道
 
ところで、鉄道にはそれほど興味がなくても、横川駅の駅弁「峠の釜めし弁当」といえば「あ、知ってる!」と相槌を打つ方もいらっしゃるのでは? 駅弁フェアでも鉄板の人気を誇る駅弁のひとつですよね。
実は、昨年104歳で他界した私の祖母は横川出身、明治生まれの祖父は元国鉄マン、そして二人の菩提寺は西松井田ということで、今回の旅の舞台は私のルーツの一端でもありました。横川方面を訪ねた時は、必ず「峠の釜めし」を食べており、幼いころから慣れ親しんだ味です。
 
いつたべても美味しい、おぎのやさんの「峠の釜めし」(写真提供:ググっとぐんま写真館)
 
今日の旅は、鉄道でも釜めしでも、お好きな方を思い浮かべて楽しんでくださいね。
 

電気機関車「10000形」が切手になるまで

 
まずは鉄道切手の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
『最新・世界鉄道切手総図鑑』によると、日本の項の一番最初に登場するのは、1876(明治9)年発行の旧小判切手5銭です。
 

旧小判切手5銭(1876年発行)


「ん?どこに鉄道が書かれているの?」と思ったら、長方形の枠の四隅に羽の生えた車輪が描かれています。なんとなく“やっぱり最初の切手は蒸気機関車だろうな”と思っていたので、これが第1号?と思いましたが、当時の日本の世情を表わしたデザインでした。
 
「「小判切手」以前の日本切手は、印刷原版を1枚1枚、職人が手で彫って作っていました。銅版画のような味わいがありましたが、大量生産には馴染まない手工芸品のようなものでした。日本は、西洋に追いつけとばかりの富国強兵、殖産興業の時代です。明治政府は様々な教育、産業の分野で、西洋の近代的な技術を早く学び、手に入れようと、欧米から技術者を招き入れました。いわゆる、お雇い外国人です。紙幣及び切手製造についても、印刷産業の先進国ドイツの印刷会社から、この会社に勤めていたイタリア人のエドアルド・キヨッソーネが指導者として招かれました。その彼の指導によって、大量印刷に対応するヨーロッパの精密な印刷方式のエルヘート凸版(ハンダ盛り上げ電胎法凸版)による「小判切手」が誕生したのです。
デザインの特徴としては、ヨーロッパ風の楕円構成があげられます。また、「小判切手」には“大日本帝国郵便”との表記があり、その英文も示されています。欧米の切手と同様に、どこの国の切手なのかが明示されたのです。さらに、楕円の外側四隅に車輪やスクリュー、気球などを描いたものもあり、欧米に近づこうという、この時代の文明開化の風潮、殖産興業政策の機運を感じることができます。」(『切手ものしりBOOK』より)
 
 
長方形の枠の中に楕円を配したヨーロッパで流行りのデザインを採りつつ、西洋に「負けるな!追い越せ!」という気概が込められた切手であり、郵便輸送のスピード感を羽の生えた車輪で表すなんて、なかなか粋だなと思います。
 
その後しばらく鉄道に関連する切手は発行されませんでしたが、1942年の日本の鉄道70年記念切手発行を機に、以降はコンスタントに発行されるようになりました。鉄道75周年や100年記念をはじめ、新幹線開通や郵便創業などの節目の年、トンネルや橋、新幹線の開通記念など、様々な鉄道切手のラインナップを見ることができます。
さて、今回の主役の1990年発行「電気機関車シリーズ」は、2種ずつ5集にわけて全10種が発行されました。当時の郵政省の報道資料(別紙)によると、
 
「電気機関車シリーズ切手の発行について
1 趣旨
鉄道切手の収集は、鉄道趣味を持っている人のみでなく、子供から大人まで根強い人気があることから、我が国において鉄道輸送の主軸として活躍してきた電気機関車の歴史を広く内外に紹介するため、シリーズ切手として発行することとした。
2 題材選定の考え方
昭和61年(JR発足の前年)までに現役を退いた機関車の中から、鉄道史上意義のあったもの、鉄道輸送の主力として活躍し功績を残したもの、デザイン又は構造上に大きな特徴のあるものを10種類選定した。
3 題材

 
 
題材の表を見ると、国鉄の華やかなりし時代を象徴する、エポックメーキングな車両であることがそれぞれの特徴から伺えます。
今回のシリーズは表に記載の通り、凹版単色刷りとグラビア多色刷りが1種ずつ組み合わされて、5集まで全10種発行されました。原画写真は交通博物館と鉄道写真家・研究家の所蔵、原画構成は郵政省技芸官の森田基治氏が手掛けています。シート構成はいずれも20枚で、発行数は各3,000万枚、全体の監修は交通博物館が担当しました。
 
今回の主役の第1集「10000形」は、ドイツAEG社から輸入された初の本線用直流電気機関車でした。
 

「電気機関車シリーズ」第1集「10000形」(1990年発行)

「昭和44年(1911年)にドイツから12両輸入した我が国最初の本線用直流電気機関車。アプト式鉄道として建設された信越本線横川~軽井沢間の碓氷峠は、1,000m進むと66.7m登る急勾配区間で、11.2kmに26箇所ものトンネルが続く最大の難所でした。開通以来、蒸気機関車による運行は、乗員・旅客とも煙害に悩まされたため、全国に先駆け電化が計画されました。
明治45年(1912年)から10000形の導入によって無煙化されました。電気方式は、直流600V、集電靴による第三軌条集電方式で、構内のみ感電事故防止のため架線からポールで集電しました。
当初の車体色は灰色、出力は420kw、昭和3年(1928年)の形式改称でEC40形となり、昭和10年(1935年)まで活躍しました。昭和39年(1964年)10000号(※10000形の誤記)が鉄道記念物に指定され、現在軽井沢駅に保存されています。」(『切手』1990年1月6日号)
 

かつてこの路線が日本で最初に電化されたとは信じがたいほど、今は静かでのどかな山里ですが、冒頭にもご紹介した通り、太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要衝であるにも関わらず、輸送力の弱さとひどい煙害問題を抱えており、電化が望まれていました。
 
「碓氷線は、傾斜した隧道を走るため、隧道内に蒸気機関車の煤煙が充満し、機関手や旅客は大変な苦痛を強いられました。機関車が一旦隧道内に入ると、煤煙と排気、ボイラーの火熱で、乗務員たちは頭を床まで低く下げ、手拭いで口や鼻を覆い、手だけで運転するほどだったそうです。しかも、66.7‰の急勾配を上る蒸気機関車の速度は時速8kmと遅く、温まった煤煙は隧道内を下から上へと流れ、あたかも煙突の中を走るような状態でした。煤煙により窒息寸前となり、生死を賭けた運転であったため、一往復ごとに危険手当が支給されました。」(『旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック』より)
 
 
蒸気機関車がトンネルに入る時は窓を閉めないと煤で真っ黒になる、という話は聞いたことがあり、煙害ってそういうことなのかなと思っていたのですが、想像を遥かに超えた危険な運転に驚きました。機関手もお客さんもこれではたまりません。この問題を解決するために、隧道の入口に幕を備え、列車が入ったら幕を閉じて隧道内に入る空気を遮断して、機関車内に流れ込む煤煙や熱気を減らす策が施されました。隧道の入口に設けられた官舎に「隧道番」が家族と共に住み込んで、1日24往復もの列車が通るたびに幕の開閉にあたったといいます。
 
隧道番の役割(『旧碓氷峠鉄道施設ガイドブック』より
 
しかし1912(明治45)年、さらなる輸送力の増強と煙害の根本的解決のため電化に踏み切り、10000形の導入に至ります。電化により煙害はなくなり列車時速は14kmにアップ、横川―軽井沢間は約80分から約49分に短縮され、横川駅に滞留していた貨物や旅客もスムーズに運ばれるようになりました。ちなみに、高崎―横川間が電化されたのは1962(昭和37)年のことですから、いかに横川―軽井沢間の電化が早かったかがわかります。この碓氷峠には幾重にも「日本初」の最新技術が活かされた鉄道最先端エリアだったんですね。
 
実は「電気機関車シリーズ」第2集のED40形も横川の急峻な峠を登ったアプト式電気機関車で、こちらは初の国産電気機関車です。
 
「大正8年(1919年)から10020形として14両製造された我が国最初の国産電気機関車。信越本線横川…軽井沢間専用のアプト式直流電気機関車で、当時は、まだ民間企業が本線用電気機関車の製作技術を持ち合わせていなかったため、鉄道省大宮工場で製作されました。
昭和3年(1928年)の形式改称でED40形となり、昭和27年(1952年)まで活躍しました。昭和10年(1935年)に私鉄に払い下げられ使用されていた10号が昭和43年(1968年)復元整備され、現在、準鉄道記念物としてJR大宮工場に保存されています。」(『切手』1990年1月20日号)
 

「電気機関車シリーズ」第2集「ED40形」(1990年発行)

以下、残りの8種の切手も見てみましょう。

その時々の情勢に伴い、人智を尽くした車両が開発され、鉄道輸送史を彩った10種の車両。切手の図柄も重厚さと精細さ、明るさと疾走感が取り合わさって、10種全体で見るととてもバランスが良いように思います。
と、鉄道素人の私は思うのですが、鉄道切手ファンの反応はどうだったのでしょうか。郵政省から「電気機関車シリーズ」の発行計画が発表されるやおおいに盛り上がり、日本郵趣協会鉄道切手部会報には期待と要望がまとめられています。
 
「◎ELはSLより外観上個性化が難しい。よほど原図製作者がその特徴を掴んで画いてくれないと何が何だかわからぬまま正体不明に陥る。そこで歴史的実証的なものを背景にしたらどうだろう。日立国産第一号が工場を出る処とか、お召し列車を牽引するEL。碓氷峠を越える場面等々。そのELに一番相応しい場所がある筈だ。
◎歴史的に意義の深いもので、現在保存されているものを取り上げて欲しい。機種と製造初年の数字を入れる。
◎電気機関車の重厚さと精密さが表現出来ればと思いあまり多色を使わず、色を抑えた渋みのある格調高い印刷方法で発行できればと思います。
◎切手の大きさは、趣味週間形の大型とし特に戦前形ELはシックな色調の凹版印刷で、戦後形は階調凹版の多色印刷として戴きたい。
◎電気機関車は横に長い形状であるから、切手の構図は横長に取り、車両全体を入れてほしい。パンタグラフも車両の一部分ですので念のため。形式名は必ず入れてほしい。ボデーの色は出来る限り現状有姿の色にして貰いたい。」(『JPS鉄道部会Railway Stamps』5巻1号No.25)
 
 
取り上げて欲しい車両には好みがあるので、必ずしもその通りにはならなかった方もいらしたようですが、こうしてみると、印刷や構図についてはかなり期待に沿ったシリーズだったのではないでしょうか。後日の講評や寸評でも、一部残念ポイントはありつつも概ね高評価だったようです。
 
ところで機関車に付けられている車両記号の「EF」とか「ED」とかのアルファベット、なんの意味だかわかりますか? 電気機関車は、電気を動力源として客車や貨車をけん引します。その電気を示すE(Electoric)と、モーターで駆動する車輪(動輪)の軸数(2本ならB、3本ならC…以下、8本ならH)を表わしています。さらに英字の後ろの数字は、最高運転速度85km/hより早いか遅いか、及び、架線から取り入れる電源が直流・交流・交直両用のいずれであるかで振り分けられます。
 
車両記号の仕組み(『テーマ別日本切手カタログVol.4 鉄道・観光編』より)
 
仕組みがわかると、とっつきにくく見えた車両記号も「ふーん、動輪車軸数3で85km/h以下の直流電気機関車ね」などと読み解くことができ、ちょっと自慢できるかもしれません。 現代の列車に使用されている「クハ」や「キハ」といった車両記号も、同様に動力や車両等級などの組み合わせでできています。日頃使っている電車の分類が見えてくると、一人ホームでドヤ顔すること間違いなし! 様々な知識は生きることを豊かにしてくれると私は思うので、切手をきっかけにいろいろなことを知ってもらえたら嬉しいです。
 

鉄道敷設に掛ける先人の想いを感じつつ、アプトの道をハイキング!

 
それでは鉄道遺産の旅へと繰り出しましょう。
今回は東京から新幹線でJR高崎駅へと向かい、そこから信越本線に乗り換えて横川駅を目指します。高崎=北高崎=群馬八幡=安中=磯部=松井田=西松井田=横川の8駅のみの鉄道旅ですが、鉄道技術の発展の歴史がギュッと詰まった路線です。休日ともなれば、大きなカメラやビデオを片手に撮影にいそしむ鉄道ファンの姿があちこちに見られ、車内にはある種の一体感が生まれ、その雰囲気がまた妙に和みます。
 
今回の旅はアプト式の鉄道遺産がメインではありますが、実は松井田=西松井田間には、かつて日本で最初にスイッチバック型停車場が設けられた歴史があります。磯部駅を過ぎたあたりからすでに碓氷峠に向けて25パーミル(水平に1,000m進む間に、25m上がる勾配)の登りが始まっており、両駅間にはスイッチバックするための長い突っ込み線と引き込み線、そして旧松井田駅があったのです。1962(昭和37)年に電化複線化した際に、高崎寄りの勾配の緩い場所に新しく松井田駅を建てたことで、スイッチバックは解消されましたが、スイッチバックとアプト式のふたつの鉄道技術を体感できる路線だったんですね(※1)。観光気分で車窓を眺めているだけですと、緩やかな登り勾配であることにはなかなか気づけないので、ここは皆さんしっかりと、「あ、登っているな」と感覚を研ぎ澄ませて(笑)乗車していただけたらと思います。
 
さて、切り立った山容の妙義山が間近になったら、いよいよ横川駅に到着です。ホームや駅舎の周囲には、碓氷線とアプト式にまつわる展示があちこちにあり、気持ちが高まります。
 
横川駅ホームのアプト式ラックレールの展示
 
横川駅から碓氷峠に向かって徒歩数分のところには鉄道テーマパーク「碓氷峠鉄道文化むら」があります。国鉄時代の貴重な車両を30車両以上展示・公開するほか、碓氷線の歴史を伝える鉄道資料館や鉄道モチーフの遊具が揃うシンボル広場、EF63形電気機関車の運転ができる施設などがあり、鉄道ファンはもちろんファミリーにも人気です。
 
「碓氷峠鉄道文化むら」シンボル広場全景

蒸気機関車シリーズ切手にもなっているD51も展示されています

 
特に電気機関車が多く保管されていて、「電気機関車シリーズ」第1集で「10000形」とともに発行された「EF58」、第3集の「EF53」、第5集の「EF30」の実物車両も展示されています。
EF53 動輪が6個の主力機関車F形の基本形となった機関車で、東海道線旅客列車として活躍。
その後すべてEF59に改造されましたが、展示車両はEF53に復元したもの

EF58 戦後の国鉄を代表する機関車で、旅客用電気機関車として、東海道・山陽・東北・上越・高崎線
などで旅客列車を牽引したり、日光線でお召し列車を牽引したりと活躍した名機

EF30 関門トンネル専用の交直流両用機関車「EF30」。本州から関門トンネル内は直流、九州は交流のため、
車上で交直切替ができる特殊構造を持ち、海水による塩害腐食を防ぐためのステンレス製車両です

 
ところで1912(明治45)年に電化され、輸送力とスピードがアップした碓氷線でしたが、日本は戦後の高度経済成長期に入り、再び輸送力の限界を迎えます。1956(昭和31)〜1966(昭和41)年に複線化工事が行われ、同時にアプト式から粘着式(車輪とレールの摩擦力=粘着力のみで駆動と支持を行う方式、いわゆる普通の運行方式)へと転換し、碓氷峠専用機関車「EF62」「EF63」を新たに導入します。これにより下り線(横川→軽井沢)17分、上り線(軽井沢→横川)24分と格段に短縮されました。それでもなお輸送力の限界を迎え、1997(平成9)年の北陸新幹線開業を期に、104年の歴史に幕を下ろしました。
 
碓氷線終焉までの歴史を物語る車両や資料が収蔵・展示された鉄道資料館は、鉄道ファン垂涎のコレクションです。また、講習を受け試験に合格すると、実際に「EF63」を運転することもできます。私が訪れたときは若い女性が運転に挑戦しており、思わず手を振って応援してしまいました。本物の電気機関車を運転できるチャンスはそうそうないですから、興味のある方はまずは講習のご予約を。
 
碓氷線の歴史を語る「EF63」と特急「あさま」も展示

鉄道資料館には碓氷線の鉄道ジオラマがあり、子供の熱い視線を集めます

2階は碓氷線の歴史を物語る貴重な資料を展示

トンネルや機関車の図面などもあり“鉄分”多めの専門的なコレクションを見ることができます

 
碓氷峠と、その勾配に立ち向かった碓氷線の歴史を学んだ後は、実際に碓氷線跡を歩いてみましょう。
この「碓氷鉄道文化むら」の入口手前から始まるのが、碓氷線の廃線跡を整備した「遊歩道アプトの道」。横川から丸山変電所跡、入浴施設「天然温泉 峠の湯」を経て、碓氷第3橋梁(めがね橋)を通り、熊ノ平駅跡までの約6kmが整備され、ハイキングを楽しむことができます。
健脚派の方は往復歩きも良いかもしれませんが、ラクして楽しいオススメルートは、行きは「碓氷鉄道文化むら」内から発着するトロッコ列車に乗車して「天然温泉 峠の湯」まで行き、そこからめがね橋(あるいは熊ノ平駅)まで往復ハイキング、そして峠の湯で食事や温泉を楽しみ、帰りはのんびり歩いて横川駅に戻るというもの。もちろん時間が合えば、帰りトロッコ列車に乗っても良いでしょう。急勾配をいかに克服したか、その設備は如何なるものかなどをガイドさんが解説してくれるので、切手になった電気機関車の走りを学びながら体感することができます。
 
丸山変電所が見えてきました。レンガ造りの美しい建物です
 
トロッコ列車は碓氷鉄道文化むら内の“ぶんかむら駅”を出て、10分ほどで丸山変電所跡のある“まるやま駅”に到着(行き列車のみ、帰り列車は通過)、ここで数分停車してから“とうげのゆ駅”に向かいます。丸山変電所跡とめがね橋は2000年発行のふるさと切手にもなっているので、切手ファンにもおなじみの史跡。「旧碓氷峠鉄道施設」として国重要文化財に指定されています(※2)。
 

ふるさと切手 群馬 左「めがね橋」右「丸山変電所」2000年発行

この丸山変電所は、横川火力発電所、矢ヶ崎変電所とともに、碓氷線電化のための電力確保を目的に、1911(明治44)年に建設されました。現存するのは丸山変電所のみで、貴重な明治時代の建築物です。短いですが停車するので、往復トロッコ列車を利用しても見所を押さえることができるのは、うれしい配慮です。
ぐんぐんと勾配を上り、鉄橋を渡り、“とうげのゆ駅”に到着です。ここからは道標にしたがってめがね橋をめざします。いくつもの隧道が連なるコースに、当時の情景を思い浮かべて進んでいきます。

向こうから電気機関車が走ってきそうな気がしてくるトンネルは、冒険感が高まります

隧道の中はヒンヤリとしていて、タイムトリップトンネルだったらどうしよう…と思わせるオレンジの電灯が、ノスタルジックな雰囲気を生み出しています。わずかに染み出す水が夏は涼やかですが、冬はツララとなるのだそう。ツララ落下注意を促す看板に冬の寒さを思ます(照明は18時に消灯します)。
5つ目の隧道を出たところで、ぱぁーっと視界が開け、めがね橋の橋上に到着です。こんな高い場所を列車が運行していたことに驚くと共に、ちょっと足がすくみます。この日は快晴で、青い空に赤いレンガがよく映えること! 建造から100年を超え、自然ともとうに調和して、人の営みを見つめ続けてきた姿に風格を感じます。
 
200万8000個ものレンガで造られためがね橋は、長さ91m、高さ31mの日本最大級の4連アーチ式鉄道橋です

下からの眺めも壮観! ただし、降りてしまうと、登りがツライので、ご注意を!

 
絶景ビューを楽しみながらお弁当を広げる人たちの姿もあちこちに。私はここで折り返しましたが、熊ノ平駅まではあと1.3kmほど。熊ノ平駅は横川―軽井沢間で唯一の平坦地で、単線時代は上下線の列車が待ち合わせをしてすれ違う場所でした。今は遊歩道の折り返し地点として整備され、変電所跡を見ることができます。
さぁ、目指すは温泉! 湯上りビールを励みに来た道を戻ります。ここまでゆっくりとハイキングしてきたので、それほど勾配を感じていなかったのですが、下り始めてすぐ気が付いたのが、格段に足の運びが軽くなったこと。トットコ、トットコと、下っていけるのです。最後の最後で急勾配を本当に実感することになりました。
 
程よい疲れを感じるころに、「天然温泉 峠の湯」に到着。温泉で疲れを取り、エネルギーを補給したら、もうひとくだり。35分ほどで横川駅に戻ることができました。
明治から令和までの時の流れを感じながら、様々な遺産に触れるハイキング。ぜひ皆さんも安中藩士の心意気で、廃線を歩いてみてくださいね。
 
※1 西松井田駅は1965(昭和40)年に地域住民の不便解消のために、旧松井田駅の横川側に新設されました。
※2 1993(平成5)年に碓氷第3橋梁を含む第2橋梁から第6橋梁が「碓氷峠鉄道施設」として国重要文化財に指定、その後1994(平成6)年に丸山変電所他が追加指定、さらに2018(平成30)年に熊ノ平変電所本屋他が追加指定となり、名称が「旧碓氷峠鉄道施設」に変更されました。
 

列車の走る音まで聞こえてきそうな風景印

 
いつもの通り、締めは風景印のご紹介です。
 
横川の関所、裏妙義の奇岩・丁須の頭が描かれた横川郵便局の旧風景印
 
鉄道にまつわる旅をご紹介してきて、すっかり気持ちが鉄色に染まっていただけに、ちょっと残念に思っていたのが、上掲の風景印でした。いえ、図案に文句がある訳ではありません。ただ、きっと鉄道に関連する何かが描かれているに違いないと思い込んでいたのです。それでも郵頼してみましょう、とお願いをして数日…。戻ってきた封筒を開けてびっくり!
 
碓氷線(信越本線横川-軽井沢間)のアプト式鉄道時代の碓氷第三橋簗(めがね橋)を渡る
ED42形電気機関車を描いた、横川郵便局の新風景印
 
なんと2021年10月11日に図案改正となり、今回の切手旅にドンピシャの風景印に変わっていたのです。眼鏡橋を渡るED42の雄姿に思わず見惚れてしまうカッコいい図案で、往時の様子を髣髴とさせてくれます。横川郵便局はアプトの道の入口すぐにあるので、配線歩きのお土産にぜひ記念押印してみてはいかがでしょうか。
 
ED42は、切手になったED40の後継にあたり、鉄道文化むらに静態保存されています
 
※ 風景印とは消印の一種で、風景入り通信日付印の略称。大きさは直径36ミリ。郵便局のある地域の名所旧跡や特産品、ランドマークなどが描かれています。手紙やはがきを出すときに、郵便局員さんに「風景印でお願いします」といえば、風景印を押して配達してくれます。また、はがき料金(2022年現在は63円)以上の切手を貼ったはがきや封書、台紙を用意して「風景印の記念押印」をお願いすれば、風景印を押して手元に返してもらえます。これを再び投函・郵送することはできませんが、記念品として手元に残すことができるので、風景印を集めることを趣味としている郵趣家もたくさんいます。
 
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今回の「電気機関車」シリーズの監修をつとめた交通博物館は、神田から移転して現在は大宮にある鉄道博物館となっています。大宮の鉄道博物館経由で横川アプトの道を歩く、1泊2日の旅なんていうのも、楽しいかもしれません。今年の夏は旅が楽しめそうですから、鉄道好きの方々はぜひ鉄旅に繰り出してみてくださいね。
 
【参考文献】
・『郵趣』1990年1月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1990年2月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1990年4月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1990年5月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1990年7月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣ウィークリー』1989年12月22日 日本郵趣協会発行
・『郵趣ウィークリー』1990年1月12日 日本郵趣協会発行
・『郵趣ウィークリー』1990年1月26日 日本郵趣協会発行
・『郵趣ウィークリー』1990年3月23日 日本郵趣協会発行
・『郵趣ウィークリー』1990年4月27日 日本郵趣協会発行
・『郵趣ウィークリー』1990年6月22日 日本郵趣協会発行
・『切手』1921号 全日本郵便切手普及協会発行 1989年12月16日
・『切手』1924号 全日本郵便切手普及協会発行 1990年1月6日
・『切手』1926号 全日本郵便切手普及協会発行 1990年1月20日
・『切手』1927号 全日本郵便切手普及協会発行 1990年1月27日
・『切手』1930号 全日本郵便切手普及協会発行 1990年2月17日
・『切手』1934号 全日本郵便切手普及協会発行 1990年3月17日
・『切手』1939号 全日本郵便切手普及協会発行 1990年4月21日
・『切手』1947号 全日本郵便切手普及協会発行 1990年6月16日
・『JPS鉄道部会Railway Stamps』No24 JPS鉄道切手部会発行 1989年7月1日
・『JPS鉄道部会Railway Stamps』第5巻1号No25  JPS鉄道切手部会発行 1989年9月1日
・『JPS鉄道部会Railway Stamps』第6巻1号No31  JPS鉄道切手部会発行 1990年9月1日
・『JPS鉄道部会Railway Stamps』第6巻2号No32  JPS鉄道切手部会発行 1990年11月1日
・報道資料「電気機関車シリーズ郵便切手第1集の発行について」郵政省 1989年12月22日
・「平成2年度における特殊切手及び地方切手の発行について」郵務局 1989年12月7日
・『テーマ別日本切手カタログVol.4 鉄道・観光編』日本郵趣協会 2018年
・「上信分かつ「碓氷峠の権現様」」朝日新聞群馬版 2006年6月30日
・『国指定重要文化財 旧碓氷峠鉄道施設ガイドブックー鉄道遺産を訪ねてアプトの道を歩くー』安中市教育委員会 2018年
・「安中市観光ガイドマップ」安中市観光課
・「安中市 松井田町 坂本 碓氷峠 遊歩道アプトの道ガイド 碓氷峠路探訪トロッコ線付」安中市観光課 2019年12月
・「碓氷峠鉄道文化むら」ガイドマップ
 
【参考ホームページ】
第48回安政遠足侍マラソン大会 https://ansei-toashi.jp/
碓氷峠鉄道文化むら https://www.usuitouge.com/bunkamura/
ググっとぐんま公式サイト https://gunma-dc.net/
文化庁「近代の碓氷峠で活躍した国産電気機関車の運用状況を示す重要資料群の調査」 https://www.bunka.go.jp/kindai/bijutsu/research/index.html
 
【写真協力】
ググっとぐんま写真館(https://gunma-dc.net/imagelibrary/
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