切手と遊ぶ発見ミュージアム

切手旅第23回「沖縄 首里城守礼門」

切手旅第23回の舞台は沖縄県那覇市です。
主役の切手は、1958(昭和33)年発行の「守礼門復元記念」です。
 

「守礼門復元記念」切手(1958年発行)

2022年は沖縄の本土復帰50周年の節目の年

 
今年は、沖縄の施政権が1972年にアメリカ合衆国から日本国に返還されて、ちょうど50年の節目の年。この切手旅で沖縄の切手をご紹介するなら、今年しかないだろうと思っていました。いつもなら舞台となる場所の概略から入りますが、沖縄・那覇といえば説明不要の有名どころ。何度も訪れたことがある方もいらっしゃるでしょう。詳細な本やWEBサイトも多数ありますので、概要はそちらにゆずることにして、今回は戦後の沖縄切手の変遷を、いろいろな切手を眺めながらご紹介します。
 
さて、上記の「守礼門復元記念」切手。一瞥して日本の切手と大きな違いがあるのに気が付きます。そうです、料金が3¢(セント)になっています。アメリカ統治下の沖縄では切手もアメリカドルが使われていたんですね。しかし、こちらの1948-49年発行の切手では額面は銭(SEN)や円(YEN)で表記されています。
 

 

同じ沖縄の切手なのに、ドルや円があるってどういうこと? 沖縄が米軍統治下であった時代を知る大人ならともかく、若い世代や子供たちには驚きかもしれません。かくいう私も切手の博物館の学芸員になるまで、話には聞いていても実際にドル表記の沖縄切手を見たことはありませんでした。こうした歴史と絡み合った複雑さゆえのおもしろさ、そして図案の美しさが沖縄切手の魅力ともいえます。では、時代に翻弄された沖縄切手の歴史を整理していきましょう。
 

1948~1958年のB円切手時代

 
第二次世界大戦終戦後、米軍統治下となった沖縄は、奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島の4つの地区にそれぞれ行政府が置かれ、個々に郵便事業を行っていました。1947年5月に沖縄・知念で第1回全琉球通信総会が開かれ、その席上で戦前の日本切手類の使用禁止が伝えられ、その対策として、通信部長の印を押捺することで使用可能とする方法が決定されました。残っていた戦前の切手や日本から切手類を取り寄せた上で印を押した、奄美の検印切手、沖縄の平田印切手、宮古の富山印切手、八重山の宮良印切手の4種が加刷暫定切手として、7~12月にかけて発行されました。そしてその一方で、正刷切手の発行準備が進められていきます。
 
米軍統治下の行政機構の変遷(『沖縄切手総カタログ 増補版』より)
 
1948年5月より、かねてから日本に注文していた切手類が到着して各政府に配布され、7月1日に5銭、10銭、20銭、30銭、40銭、50銭、1円の7種からなる正刷切手が発売(※1)。この第1次普通切手から、1958年7月1日発行の郵便切手発行10年記念までの10年間を、郵趣の世界ではB円切手時代と呼びます。
B円とは日本占領時に米軍が準備した軍票のことで、B円は1948年に行われた占領後3度目の通貨交換で沖縄の統一通貨になったものを指します。この期間に発行された円表示の沖縄切手がB円切手と呼ばれ、1ドルは120B円でした。
沖縄在住の郵趣家が当時を振り返った記事によると、
 
「1948年7月1日に琉球初の正刷切手が登場した。しかし当時これを知っていたのはごく一部の人にすぎなかった。戦禍をうけ、裸で立ち上がる人びとにとって郵便切手の発行はさして重要ではなかったのだ。郵便どころか生きるのに精一杯で郵便の利用も微々たるものであった。
 私が初めてこの切手を見た時、ソテツや百合、山原船などローカル的色彩に眼をみはったが、それにもまして私を驚かしたのは下方に記された琉球郵便の文字だった。「占領下とは言え日本の一部である沖縄が切手を発行しても良いものだろうか」という妙な気持を抱いたのを未だに忘れることが出来ない」(『郵趣』1958年8月号)
 
このリアルな描写こそ、当時の沖縄の大半の人の感想なのかもしれません。当時の時代感が伝わる貴重なレポートだと思います。
 

第1次普通切手・初版「百合」1946年発行

 
その後、1949年に第1回全琉球通信会議が開催され、郵便、電信、電話に関する料金の統一などが議題となり、8月1日には地区によってばらばらだった郵便料金が統一。さらに1950年、これまでの4つの地区にそれぞれ民政府がおかれている状態から、中央政府樹立のための沖縄側の意見の調整役として、臨時琉球諮問委員会が設置されます。また、全沖縄の通信業務を統括する郵政庁も発足し、4地区がまとまった統一郵政となり、発展を続けていくことになります。臨時琉球諮問委員会は1951年に琉球臨時政府に、そして1952年には琉球政府となり、1972年の本土返還まで存続していきます。
 
さて、1948年に発行した第1次普通切手の売り上げが好調だったことから、第2次普通切手の発行が計画されます。
 
「郵便事業の全琉化と合わせて、新しい普通切手の発行が計画され、占領軍の指導によって一般から懸賞図案が募集されることになった。1949年2月に計画が公表されると、全琉各地から200点余にのぼる応募があり、5月に入選作が発表された。
採用された図案の入選順位は次のとおりである。50銭(1等)、1円(2等)、2円(3等)、3円(2等)、4円(6等)、5円(4等)。同時に航空切手、速達切手も計画され、やはり入選作が使われた。」
「このシリーズで注目されることは《RYUKYUS》というローマ字による国名表記であろう。これは、これらの切手が全世界の収集家の興味を強く引くようにするために、軍政府がとった新しい郵趣政策であるといわれている。また「郵便切手」を示す文字も入っていないが、これは入れ忘れたとも、あるいは、ローマ字にするか英語にするか決まらなかったために、わざと省いたものとも言われている。」(『沖縄切手総カタログ増補版』)
 
赤瓦の唐じしや首里城正殿、沖縄の乙女、琉球衣装の婦人、貝殻など郷土色豊かで、沖縄らしい図案ばかり。日本語がまったくないので、ぱっと見では外国の切手のようです。
 

第2次普通切手「首里城正殿」1950年発行

1951年には初の記念切手の発行、1952年には沖縄の民俗的遺産をたたえる建造物や、古くから伝わる工芸品を描いた普通切手の文化財シリーズが発行され、順調に切手発行が続いていきます。また、市民の郵趣活動も活発になり「琉球切手友の会」が結成。翌年には切手展の開催や会誌が発行されています。
 

正刷切手発行10年記念切手(1958年発行)

1958年7月1日、正刷切手発行10年記念切手が初の大型切手として発行されます。印面は48×32ミリで発行数は180万枚、1948年発行の「第1次普通切手」5銭ソテツ、1956年発行の「民族舞踊」14円七目付(ななみちき)、1957年発行「凹版天女航空」60円の3種が、10年の歴史を象徴するように描かれています。「印面の中で10年を振り返るデザインなのか」と私は思いましたが、沖縄の収集家の間では不評もあったようで、
「われわれを失望させるに充分なでき栄えであった。この10年間の最大の愚作といってよいであろう。図案面には、切手発行のよろこびも何もあらわれていなく、無気力そのものの図案である。かっての琉球切手にみられた意欲的な制作態度はどこへ消えうせてしまったのであろうか」(『郵趣』1958年8月号)
とのこと。いつの時代も収集家は辛口です。
 

1958~1972年のドル切手時代

 
正刷切手発行10年記念を祝ってつかの間、突然にその知らせはもたらされました。
 
切手発行十年で転期 加刷で急場をしのぐ
琉球、B円からドルへ
 
琉球のアメリカ高等弁務官は、八月二十三日、とつぜん「アメリカ政府は琉球のB円を回収してちかくアメリカドルを使用することに決定した」と発表しました。
この切替えはいつになるかまだはっきりわかりませんが、たぶん九月一日になるのではないか、といわれています。
そうなれば、とうぜんいま売られている郵便切手も廃止されるか、変更されるかの問題がおきてきますが、現地の郵便関係の人たちはどのように考えているのか、八月二十五日午後二時琉球政府公務交通局郵務課長富山常仁氏に電話でたずねてみました。
 
九月一日からドルに切替えになるといわれています、そうなったときの切手の準備はできているのですかー
まえから、ドル切替えのうわさはあったのですが、まさかと思っていたので、まったく対策がたっておりません。いま緊急協議会が開かれておりまして、郵政次長が出席しております。
 
ドルだてになると、アメリカ本国の切手が使われることになるでしょうかー
そういうことはないと思いますが。
 
すると独自の切手をドル・セント表示で発行するわけですかー
最終的にはそういうことになりましょう。だがすぐには間に合わないので、いま使っている切手のうち7種ぐらいを選んでドル・セントの加刷をしてとりあえず急場をしのぐというところに落着くのではないかと思います。
 
どんなふうに加刷するんでしょうかー
それもわかりませんが、前の十円、百円加刷とおなじ様式が考えられますね。
 
九月一日に切替えとなった場合、加刷切手はそれに間に合いましょうかー
そうなったらとても間に合いません。どんなに急いでも十日はかかりますからね…。
 
郵便料金はどうなりますかー
それなんですよ。郵便料金がはっきりきまらないので、切手も決まらないという理由もあります。アメリカ本国では手紙四セント、はがき三セントですから琉球も同じになるのではないかと思います。とにかく、短期間のうちに、あれもこれも決めなければならないのでたいへんです。
 
十月十五日発行予定の守礼門復元記念切手はどうなりますかー
まだ一ヵ月以上もあいだがありますから、それまでにドル切替になり、郵便料金がきまればセント表示のもので印刷して何とか間に合うと思います。もしどうしても間に合いそうもなければ、さいごの手段として現在の版で印刷して、あとで加刷するという手もとれますから、まあいずれにせよ、発行することはすると思います。
 
どうもいろいろとおきかせくださいましてどうもありがとうございましたー
いや、突然の発表だもんですから、まだなにもきまってなくて、具体的におこたえできず、申しわけありません。本土のみなさま、とくに収集家のみなさんによろしく。」(『郵趣タイムズ』)
 
 
8月23日午後2時のアメリカ高等弁務官ブース中将の発表から丸2日後、突然のことに右往左往する富山課長の姿が目に浮かぶような電話取材の様子です。あまり緊迫感が感じられないのは、時代なのか、沖縄の緩やかさなのでしょうか。ともかく、前掲の正刷切手発行10年記念が図らずもB円切手最後の切手になってしまったのでした。
 
「沖縄県民にとって、このニュースはひじょうにショッキングなものであり、この通貨改革が沖縄経済のノドをしめるものであり、ひいては米国の極東軍事基地としての地位を強化するものであると、経済界はじめ世論を上げて反対した。しかし占領軍の命令は絶対であり、この改革は9月16日に(15日の予定が台風のためのびた)実施された。」(『郵趣』1958年10月号)
 
ドル切手の準備については、8月25日の切手発行委員会によって沖縄で印刷することが決まり、図案はデザイナー・伊差川新氏と琉球大学助教授の安谷屋正義氏の合作で、¥(円)と$(ドル)を組み合わせた地紋様に、中央に額面、右下に琉球郵便を配したものとなりました。8月29日に入札、9月7日納品という非常なタイトスケジュールで作られたドル切手。思わぬハプニングもあったようです。伊差川新氏の手記によると、
 
「それまでB軍票を使っていた沖縄住民にとって、ドル切り替えは多くの不安と期待を与えた。その決定があまりにも急だったので、切手の方も急ぎドル切手を作らねばならない。従来のように大蔵省の印刷局に発注したのでは到底間に合わぬとみて、安谷屋氏とわたしが協力して二、三日でデザイン、沖縄で印刷をすることになった。
ところが、その頃は沖縄の印刷技術も悪いうえに、切手の印刷は勿論はじめてとあって、印刷所もとまどうばかり。1シート単位の凸版がどうにもうまくゆかず、時間もないというのに何度も製版をやりかえ、まるで戦場のような騒ぎだった。わたしも二晩ばかり徹夜で印刷の立ち合いまでやらされた。こんなこともあって、わたしの方もとんだミスをやらかした。1ドルの表示を1$としたまま印刷をつづけ、途中でこれはおかしいということになって、$1と修正して印刷を続行したが、すっかり泡喰ってしまって、$1.00とゼロをつけるのも忘れている。
印刷がこんな有様だから、勿論紙質も悪く、ミシンの目も揃わず、切手の糊引きもできなくて、貼ってもくっつかないとしばらくは苦情が絶えなかった。そのうち、印刷ミスの1$表示の切手を「世界でも珍しい切手」だというので、全部買い受けたいというアメリカ人などが出てきて苦笑した次第。もちろん、一枚たりとも出すわけにはいかないので、きれいサッパリ全部焼却処分した、ということである。」(『沖縄切手のふるさと』)
 
デザイナーまで駆り出されて、その場で修正しながらの印刷とは、なんと慌ただしいことでしょう。現場の混乱が伺えます。
 

ドル表示数字切手(1958年発行)

実はこれ以前より、沖縄では切手ブームが起きており、新切手発行のたびに郵趣家が窓口に押し寄せる光景が見られていたそうなのですが、ブース中将のドル切替えの声明以降、新切手のみならずこれまでのすべてのB円切手の買い漁りへと進行していきました。ドル表示数字切手の発売日からB円切手売捌停止期限の9月15日までの17日間に、郵券係窓口で売り上げた総額は285B万円(日本円で855万円)にもなったといいます。

さて、切手ブームと買い漁りの混乱のなか、いよいよ今回の主役の切手の登場です。1958年10月15日、かねてより復元中であった首里城の守礼門の完成を記して発行されました。額面は当初4円でしたが、ドル切替えにより3セントに変更となり、製版し直されました。7月に発行された切手発行10年記念切手と同じ48ミリ×32ミリの大型切手で、原画は伊差川新氏、発行数は150万枚でした。
 

「守礼門復元記念」切手(1958年発行)

「国宝に指定され、沖縄建築の誇りの一つであった<守礼門>が、文化財保護委員会の努力と一般の協力による募金で復元されたのを記念したもの。復元工事は1957年秋に始められ、約1年、延べ3,000人の労働力で行われた。費用は280万B円(約840万円、当時)といわれる。」(『沖縄切手総カタログ増補版』)
 
敗戦から立ち上がる人々の士気を象徴する守礼門が、堂々とした大判切手に描かれています。文部省技官の森政三氏が戦前の設計書や写真を提供し、首里城を修理した経験のある知念朝栄氏が棟梁となって行った復元工事により、以前と寸分違わぬ守礼門が完成しました。守礼門の切手は1952年の文化財シリーズ《建造物》4B円にも採用されていますが、これは戦前の焼失前のもの。ちょうど『郵趣』1958年8月号には、復元過程の守礼門の写真が載っていました。周囲の様子も今とはまるで違っていて、沖縄戦の激しさを物語っています。守礼門の復元は、さぞ人々の心を浮き立たせたであろうことは想像に難くありません。
 
 
復元中の守礼門(『郵趣』1958年8月号)
 
この1958年から1972年のドル切手時代は、実に色鮮やかで美しい切手が発行されました。全257種が発行され、その図案は沖縄独特の植物や生物、伝統芸能、舞踊、工芸品、建築物、記念行事など多岐におよび、鮮やかな色彩とともに「RYUKYUS」「琉球郵便」などの文字が入っています。これらの琉球切手は通信販売を通じて本土やアメリカなど外国の収集家の手に渡り、愛好家の輪を広げていきました。
 
1960年代から沖縄の日本復帰を求める運動が徐々に活発化します。1960年代後半にはベトナム戦争の激化により、沖縄は米軍の最前線基地となり駐留米軍の数が激増、事件や事故が多発し、住民の不満も高まっていきました。そして1969年、佐藤栄作総理大臣とニクソン大統領の日米首脳会談で、1970年の日米安保条約を延長することと引き換えに、“1972年・核抜き・本土並み”の条件で沖縄返還が合意。翌1971年6月に返還協定が調印され、1972年5月15日、沖縄の施政権はアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生しました。
本土復帰決定は、沖縄の郵趣界も大きく揺さぶります。1971~72年の郵趣雑誌では軒並み沖縄の混乱と、それに伴う異常な切手投機ブームを伝える記事が掲載されています。
 
「昨年12月、突如、琉球政府郵政庁は、通信販売の廃止を発表しました。それによると、日本への復帰準備のため、適当な時期に切手の発行を停止しなければならないこと、通販停止後は、沖縄の友人や知人を通じて、沖縄の郵便局窓口から、直接切手を求めるようにということでしたが、これは沖縄在住者以外には、不可能であり、事実上、海外郵趣家への販売停止です。
 
混乱まねいた新切手発行のうわさ
ところがこともあろうに、通販制度は廃止するが、新切手は、その後も、数種発行する計画があるらしいとのうわさがとび、収集家を驚かし、混乱させ、集中的非難を買う結果となりました。こうしていろいろな憶測や、うわさのとぶ中で、郵政庁郵券課に問合せて、確認出来たことは、とにかく販売は、郵便局の窓口のみで行なう、という基本方針のみで、この方針変更に伴う具体的販売方法は、ひとつも決定されていないということでした。(中略)
 
郵政庁の無策がひき起こした異常な切手ブーム
復帰をひかえて、沖縄切手の人気は急速に高まり、ファイナル・イッシュと英字が書きこまれた「切手趣味週間」の記念切手発行に至って、ブームは頂点に達し、すさまじいばかりの切手争奪に卒倒者やケガ人まで出、ついには機動隊が出動するという異状な事態となったのです。この日郵政庁前に集まった人はざっと3万人、切手を求めて並ぶ列の中には、小・中・高校生の姿が目立つが、ほとんどが業者にたのまれたアルバイトで、また切手を投機家たちに売ると、その場で2倍にも3倍にもなるというので、多くのにわかマニアも押しかけ、大混乱をまねいたわけです。庁舎前では、札束をワシづかみにした本土の業者たちが、切手を買い求めた人たちを待ちかねたように、盛んに取り引きをしていました。」(『郵趣』1972年6月)
 
最後の琉球切手の発行日1972年4月20日、那覇市の中央郵便局に
できた収集家の行列(『沖縄切手総カタログ増補版』
 
三倍で買います ―業者―
「切手買います」―。郵政庁前では業者が朝から車で乗りつけ、十シート十ドルを二十五ドルから三十ドルで買いあさっていた。しかもほとんどが本土の業者。庁舎の玄関口にはいり込み、切手を買い求めた人たちを待ちかねたように「二十五ドルでどうか」と持ちかけていた。車の中では札束をワシづかみにした業者が盛んに取り引きをしていた。
取り引き相場も午前七時ごろは二十五ドルだったのが、またたく間に三十ドルと値上がり。午後四時ごろには二十七ドルと幾分安くなった。一方、業者が値をつり上げるので、投機買いの人たちは大喜び。窓口を出たとたん、十ドルが三十ドルと三倍になるとあって二、三回の割り込みをしているのもあった。
郵政庁ではこうした業者に対して「風紀上悪いから、ここで商売しないでくれ」としかっていたが、業者はその声を全く無視していた。法的に規制することが出来ないので追いかえすわけにもいかず、郵政庁は大弱りだった―四月十八日付沖縄タイムス―」(『京都寸葉』昭和47年5月21日号)
 

切手趣味週間「嘉瓶」(1972年発行)ファイナル・イッシュ

琉球ドル切手の最後の切手は、1972年4月20日発行の「切手趣味週間」切手でした。画題は嘉瓶(ゆしびん)で額面は5セント、発行数350万枚のグラビア多色刷で、切手上部には「Final Issue(最終発行)」の文字が入っています。嘉瓶とは、上流階級の間で祝事の際に泡盛を詰めて御祝儀として贈る酒瓶のことで、意匠となったのは上部の飴釉と下部の緑釉が鮮やかに調和した、19世紀初期の壺屋焼です。
 
「ユシビンの切手には、ファイナル・イッシューの文字が入っているが、このようなことは世界でも例がない。たいていの国の切手の発行の終わるときは、戦火の中でいつの間にか消えていくといった例が多いからである。この点でも、沖縄切手は切手の世界でも全く特殊なものであったといえよう。」(『沖縄切手のふるさと』)
 
なるほど、確かに“最後の切手ですよ”と自ら明示した切手は珍しく、郵趣家の収集魂に火をつけ、切手ブームが過熱したのも頷けます。しかし、問題はそうした適正な価格で適正な量を求める正しい郵趣家ではなく、沖縄切手を投機目的で爆買いする業者と、額面の2~3倍という高い金額での買取に眼がくらんだにわかマニアが現れたことにより、「狂気のサタ」といわれる異常事態となってしまいます。
 
投資を煽るカタログ『沖縄切手で儲けろ』表紙
 
投機業者が都合の良いように作った、なんともドギツイ表紙のカタログを見ると、ドル切手は1シート数万円以上の評価が付けられ、切手評論家が盛んに儲かると煽りたてています。この状況に対し、日本郵趣協会は『郵趣』誌上で“異常な琉球切手投機に警告する”との声明を発表し、事前に大量の切手を買っておいた上で意図的に値段をつり上げるやり口や、一種三百万枚も発行された切手が投機によって値上がりしたことなど世界に一例もないこと、一時的には架空の相場がつくられるかもしれないが、その値は必ず崩壊すること、本土の良識ある切手業者はすでに沖縄切手の買い入れを中止している事実を投資家たちは知らないことなど、投機のカラクリを暴いて混乱の火消しに努め、その結果わずか1年余りで沖縄切手の値は大暴落することとなりました。

“切手は儲かる”。そんな煽り文句で、沖縄の本土返還という節目を大いに乱した行為にはあきれるばかりですが、オイシイ話に惑わされるのも人間の弱いところ。自分も気を付けようと思いました。
 
ジュニア雑誌『スタンプ・マガジン』創刊号の特集ページ。日本郵趣協会は青少年を守り、
正しい郵趣知識をつけてもらおうと、啓蒙活動にも力を入れました
 
現在、郵趣家の間では琉球切手は「デッド・カントリー」と呼ばれています。もう存在しない国のことを指しますが、アメリカから日本に返還されただけで、確かに沖縄はそこにあり続けていますし、戦前を知る方もまだたくさんご存命です。解決すべき問題もまだ残っており、50年は長いようで短いともいえます。切手を通じながら、戦争のこと、統治下のことを「昔」のことと切り離すわけにはいかない「今」を知ることもまた、忘れてはいけない大切なことだと思います。
 
※1 八重山は到着が遅れ、7月8日発売となった。
 

よみがえる姿は今しか見られない!「見せる復興」中の首里城へ

 
歴史の中に見る琉球切手のご紹介にいささか夢中になりすぎた感のある今回、切手のお話が長すぎてごめんなさい。最後になりましたが、今回の主役切手に描かれた守礼門のある首里城へ出かけましょう。
 
首里は那覇市の北東部にあり、沖縄の方言では「すい」と呼ばれています。かつては琉球王国の王都がおかれ、1954年に那覇市と合併しましたが、旧首里市だった町には町名に「首里」が冠せられ、古都・首里の名を残しています。周辺は石灰岩が隆起した高台になっていて、見晴らしは良好。
 
ゆいレールの儀保駅ホームから見た首里城。首里城が高台にあることが良くわかります
 
一般に石灰岩は透水性が良いのですが、首里一帯には地下水を通しにくい泥岩層が下にあるため、水が豊富に湧きます。王都が置かれたのも水利に優れていたからと言われています。この豊富な水は泡盛造りにも欠かせません。琉球王国時代には、首里三箇と呼ばれる限られた地域だけが泡盛を作ることを許されていました。その流れを汲み、首里城のすぐ近くにある「瑞泉酒造」では酒蔵見学や、3年以上熟成させた古酒(クース)の試飲ができます。左党の方は首里城見学後にぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょう。
 
首里城瑞泉門前には湧水が「龍樋」という樋より湧き出ています
 
「瑞泉酒造」の古酒甕が並ぶ様子。泡盛が大好きなので、
しっかり試飲してお気に入りの一本をお土産にしました!
 
時間があれば首里の街もぜひ歩いてみてほしいところ。観光ガイドなどでもよく紹介される首里金城町石畳道は風情満点! 琉球王国の尚真王が1522年に建設を始めたという官道「真珠道(まだまみち)」の一部で、238mが戦禍をくぐり抜けて現存しています。
多くの人が行きかったであろう歴史道は、歩いているだけで様々な思いがこみ上げます。
かなりの急勾配な上、濡れていると滑るので、ゆっくりゆっくり…。
 
首里城散策に戻りましょう。
琉球王国は、尚巴志が三山統一をした1429年から、1879年の廃藩置県により国王・尚泰が追放されて沖縄県が設置されるまでの450年間にわたり存続した王制の国。中国、日本、朝鮮、東南アジアの諸外国と貿易を通して発展した海洋王国で、首里城は王宮と王府の両方の機能を備えた、政治・外交・文化の中心地でした。
首里城は15世紀初期に内郭が作られ、その後16世紀中頃に外郭が作られました。日本と中国の建築様式を取り入れた独自の作りで、曲線を描く精緻な城壁の中には、荘厳な門と鮮やかな朱塗りの殿舎、広場や祭祀を行う聖地が点在しています。
 
沖縄を訪ねたなら、一度は目にしておきたい守礼門

守礼門の扁額「守礼之邦」

 
守礼門は、首里城の顔とも言える代表的な門。「琉球は礼(儒教の徳目)を重んずる国である」という意味の「守礼之邦(しゅれいのくに)」の扁額を掲げています。16世紀中頃に建てられ、中国風の牌楼(ぱいろう)という作りで、屋根には琉球特有の赤瓦が葺かれています。琉球王城に至る門として1933年に国宝に指定されますが、沖縄戦で焼失。1958年に復元されて、今回の主役切手である記念切手が発行されました。その後もたびたび切手に登場する、一番有名な門といえるでしょう。
 
本土の城郭では見かけない優美な弧を描く石垣

西洋のお城のような意匠で、まるでジブリ映画に出てきそう

 
私が初めて首里城を訪ねたのは2007年のこと。鮮やかな殿舎はどれも本土の城とは異なる意匠がちりばめられており、弧を描いてそそり立つ石垣も素晴らしく、一目で魅了されました。折しも、首里城祭の期間にあたり、正殿前に中国と琉球王国の装束をまとった人々が会して冊封儀式の再現イベントも行われており、その装束の独特さと色合い、楽器の音色、儀式の号令など、いずれも初めて目にするものばかりで、琉球王国がよみがえったかのような光景でした。
 
焼失前の首里城正殿で行われていた冊封儀式
 
屋根に葺かれた巨大な龍頭棟飾
 
正殿内部の王座。ここで国王が政治や儀式を執り行いました。鮮やかな漆が印象的です
 
正殿入口には向かい合うようにして大龍柱が立っています
 
しかし、皆さんご存知のとおり2019年10月31日の火災により、正殿をはじめ南殿、北殿など多くの復元建築物と収蔵・展示されていた工芸品が焼失・焼損しました。首里城のすぐ隣の沖縄県立芸術大学に、学生時代にお世話になった先生がいらっしゃるのですが、やはりこの首里城火災は衝撃であったとのこと。「火の勢いが強くて、離れていても熱さが伝わってくるほど。学生たちと呆然と眺めることしかできなかった。今でも首里城を眺めるたびに、喪失感を感じる」とおっしゃっていました。
私ですら、テレビの画面を通してあれほどショックを覚えた被災ですから、沖縄の人々にとってはとてつもない悲しみであったことが伺えます。
 
炎上の様子と火災後の状況を伝えるパネル
 
その首里城が、今ふたたび蘇ろうとしています。2026年の正殿完成を目指して「見せる復興」をキーワードに、復元現場を公開しながら工事を進めています。今回、沖縄復帰50年の節目の年に、どうしても首里城の復興過程もこの目で見ておきたくて、10月に首里城を訪ねました。
首里城を見に行くというと、「焼けちゃって何もないんでしょ」「燃えちゃったんだから行っても意味なくない?」なんて言葉を掛けられもしましたが、意味ないなんてとんでもない! 首里城正殿はこれまでに7回も火災などにより建て替えられていて、そのたびにその時代の人々が苦心して再建してきました。地下には時代の異なる正殿の基礎が幾重にも遺されており、世界遺産「首里城跡」の構成資産のひとつとなっています。火災で焼失してしまったことは残念ですが、それが首里城の価値を貶めることなどなく、これもまた未来永劫続く長い歴史の一部ともいえるわけです。
2007年の訪問時の正殿遺構。地中深くまで基礎が遺されているのがわかります
 
守礼門をくぐり、歓会門と瑞泉門を経て下之御庭へ至ると、大龍柱補修展示室があります。激しい火災にあったにもかかわらず、燃え跡にすっくと立ち残っていた奇跡の大龍柱が、修理を終えて展示されています。修復過程の映像も見ることができ、損傷の激しさと、保存科学・修復科学の技を知ることができます。
 
補修展示室内に横たわる、修復された大龍柱。痛みの激しい部分は
ドリルで穴をあけ、アンカーでつなぎ止めるなどの処置が施されています
 
現在、正殿エリアには仮設見学デッキが整備され、正殿復元のための木材を保管する木材倉庫や原寸場(原寸大の設計図を描く場所)などが建てられています。ガラス張りになっていて、宮大工の作業風景を直接見学出来たり、デジタルサイネージで復元状況の最新情報を紹介したりしています。また、「首里城復興展示室」「世誇殿大型映像設備」「ミュージアムショップ球陽」などもあり、残存瓦の展示や正殿遺構の映像(正殿遺構は、復元工事中は保護され2026年まで見ることができません)を公開しています。また、首里城のホームページでは、ドローンやタイムラプスなども使って、これまでの復興の過程も見ることができます。
中央の緑のシートが敷かれているところが正殿のあった場所です

屋根にあった龍頭棟飾の残存物が展示されていました。口髭や眼、鱗、歯などのパーツが残っています

「首里城復興展示室」では、残存瓦など火災の激しさをうかがわせる遺物も見ることができます

 
これらを巡る所要1時間30分の「見せる復興」見学コースマップもあり、“復興”にスポットを当てて歩くこともできます。
私が今回の訪問で一番感動したのは、東(あがり)のアザナからの景色。柔らかな曲線の石垣の中に、残った建物とともに木材倉庫や原寸場が見え、その向こうには那覇の街並みと海。あと4年経てば、再び赤い甍が連なる様子が見られるはず…。必ずまたここにきて、その景色を見よう、そう思える眺めでした。
 
東のアザナ(展望台)。狭い通路などの石組みの技術も素晴らしく、見どころのひとつです

東のアザナから正殿方向への展望。4年後には正殿が復元されていることでしょう

シャモットボランティアの様子。粉状にされた破損瓦は、再び赤瓦へと生まれ変わります

 
見るだけでは物足りないなぁ、という方にはボランティアへの参加がオススメ。これまでも赤瓦の漆喰はがしボランティアや、赤瓦の原料のひとつとして使用するシャモット製作のボランティアが実施されていました。私が訪ねた時も、暑いなか汗を流しながら、破損瓦を粗割する方々の姿が見られました。これからもこうしたボランティアの募集があるかもしれませんので、沖縄を訪ねる際はホームページをチェックしてみてはいかがでしょうか。あなたのチカラが、復興の一助になるかもしれませんよ! 刻々と姿を変える首里城の姿を目に焼き付け、心と力を寄せたいと思う方は、これからしばらくが訪沖のチャンスです。
 

首里城の風景印

 
今回は2局から風景印を郵頼してみました。
 
守礼門、シーサー、デイゴが描かれた牧志郵便局の風景印

首里城正殿、大竜柱、尚家の紋章が描かれた首里郵便局の風景印

 
牧志郵便局の守礼門は切手とそっくり! 迫力のあるシーサーが印象的です。また首里郵便局の図案は、かつてあった風景であり、4年後によみがえる風景といえるでしょう。どちらも今回ご紹介した切手とばっちりマッチングできそうですが、琉球ドル切手は使えないのでご注意くださいね。
ところで、旅行に行ったついでに風景印をお土産にしようと思っても、週末旅行だから郵便局が閉まっていた、という声をよく聞きます。そんな時は中央局などの大きな郵便局に行ってみましょう。時間外窓口があるところなら、窓口で風景印も押印してもらえます。中央局の風景印には、その土地を最も代表する事柄が描かれていることが多いので、記念にはぴったりです。
 
※ 風景印とは消印の一種で、風景入り通信日付印の略称。大きさは直径36ミリ。郵便局のある地域の名所旧跡や特産品、ランドマークなどが描かれています。手紙やはがきを出すときに、郵便局員さんに「風景印でお願いします」といえば、風景印を押して配達してくれます。また、はがき料金(2022年現在は63円)以上の切手を貼ったはがきや封書、台紙を用意して「風景印の記念押印」をお願いすれば、風景印を押して手元に返してもらえます。これを再び投函・郵送することはできませんが、記念品として手元に残すことができるので、風景印を集めることを趣味としている郵趣家もたくさんいます。
 
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盛りだくさん過ぎる今回。まだあるの?と言われそうですが(笑)、あと2つ、おすすめの場所があります。ひとつは首里城近くに今年4月にオープンした「首里染織館suikara」。“美しき布たちの物語に出会う”をキャッチフレーズに、首里織と琉球びんがたに触れ、学び、体験することができます。実は沖縄には、本土でよく見かけるような呉服店が少なく、反物に帯をあわせた展示を見る機会が少ないのだとか。素敵なコーディネートを見せることで、沖縄の布の美しさが再発見できる場所になっています。もうひとつは「沖縄県立博物館・美術館(愛称:おきみゅー)」。全国でも珍しい博物館と美術館が併設された施設で、沖縄の自然・歴史・文化・芸術を一度に観賞できる学びの殿堂です。博物館には切手の意匠となった生き物や動植物、生活の道具や祭りの様子の展示、美術館では数多くの切手原画を所蔵していますので、切手旅には欠かせないスポットです。
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さて、23回まで続いた切手旅も、今回が最終回となりました。47都道府県のちょうど半分ほどを皆さまと一緒に旅することができました。本当にありがとうございました。世の中まだまだコロナ禍真っただ中ではありますが、旅を楽しむ余裕も少しずつ生まれています。どうぞマイペースで、切手を片手に旅に出ていただきたいと思います。
 
【参考文献】
・『沖縄切手総カタログ増補版 本土復帰50周年記念』日本郵趣協会発行 2022年5月
・『テーマ別日本切手カタログ vol.2世界遺産・景観編』日本郵趣協会発行 2016年7月
・『沖縄切手のふるさと』月刊青い海編 高倉出版会発行 1973年3月
・『沖縄切手ハンドブック』立川憲吉編 日本郵趣協会発行 1973年5月
・『標準 沖縄切手アルバム』全日本切手商協会編・発行 1973年3月
・『沖縄切手で儲けろ《1973年版》』切手投資センター監修 エルム発行 1972年12月
・『沖縄・高松塚の時代 切手ブームの落日1972-1979』(解説・戦後記念切手Ⅴ)内藤陽介 日本郵趣出版発行 2007年3月
・『郵趣』1958年8月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1958年10月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1958年11月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年4月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年5月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年6月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年7月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年8月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年9月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年10月号 日本郵趣協会発行
・『郵趣』1972年12月号 日本郵趣協会発行
・『スタンプマガジン』12月創刊特別号 1972年11月 日本郵趣出版発行 
・『切手』293号 全日本郵趣連盟発行 1958年9月28日
・『切手』297号 全日本郵趣連盟発行 1958年10月26日
・『切手』999号 全日本郵便切手普及協会発行 1972年4月10日
・『切手』1000号 全日本郵便切手普及協会発行 1972年4月17日
・『京都寸葉』492号 京都寸葉会 1958年1月1日
・『京都寸葉』524号 京都寸葉会 1958年9月2日
・『京都寸葉』525号 京都寸葉会 1958年9月11日
・『京都寸葉』526号 京都寸葉会 1958年9月21日
・『京都寸葉』1043号 京都寸葉会 1972年4月1日
・『京都寸葉』1048号 京都寸葉会 1972年5月21日
・『京都寸葉』1053号 京都寸葉会 1972年7月11日
・『郵趣タイムズ』第125号 日本切手趣味協会発行 1958年9月5日
・『風景印大百科 1931-2017 西日本編』日本郵趣出版発行 2017年5月
 
【参考ホームページ】
首里染織館suikara https://suikara.ryukyu/
沖縄県立博物館・美術館 https://okimu.jp/
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